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【上杉鷹山】
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改革はフルコース 産業振興から領民の指導まで
鷹山の改革はまさにフルコース。領民の指導から財政再建の産業振興まで、多岐に及びます。
「伝国の辞」をモットーに、鷹山は改革に取り組みます。
・参勤交代費用の削減
・藩士の生活救済
・藩校「興譲館」の再興:現在もその流れを組む興譲館高校(→link)がある
・有能な人材の発掘と登用
・郷村教導:領民たちに道徳観念や農業技術を指導
・世襲代官廃止
・漆・桑・楮(コウゾ)栽培促進:領内で特産物を作る
・灌漑用水開発
・殖産興業策の実施
・「備籾蔵(食料備蓄倉庫)」設置
・「かてもの」の刊行:重臣・莅戸善政の著作。救荒食ガイドブック。太平洋戦争時においても参照されたとか
・国産品奨励:現在で言うところの「地産地消」のような概念
・御用商人との関係改善
・戸籍の管理:耕作人口増加のねらい
・「農民伍什組合」の設置:農民のチームワーク強化に役立つ組織化
・勧農金貸し付けの促進
・「御報恩日備銭」制度:定められた休日に一家揃って内職を行い、それで得た収入を肝煎に納める
・風紀風俗の華美取り締まり
道のりは決して平坦ではありませんでした。
飢饉、火災、世子の夭折。文政5年(1822)に72歳という高齢で亡くなるまで、鷹山は藩の立て直しに取り組みました。
質素倹約につとめ、思いやりにあふれる一方、改革を断固として行う果断も持ち合わせたまさに名君でした。
そんな彼は米沢藩だけではなく、日本の歴史上でも屈指の仁君ではないでしょうか。
鷹山が没した時、藩の借財はあらかた返し終えていました。
会津と運命を共にして
しかし鷹山の死後、米沢藩では災害が相次ぎます。
鷹山時代に廃止された借上も再度復活し、藩士たちには内職をしながら食いつなぐ厳しい日々が待っていました。
そして迎えた幕末。
米沢藩はかつて御家断絶の危機から救った保科正之を藩祖とする会津藩を見捨てることができず、奥羽列藩同盟に参加することになります。
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第12代藩主・斉憲は逆賊として維新を迎えました。
米沢藩の士族たちは、維新後もますます困窮します。
内職としていた機織りを本業とした者も多く、これが「米沢織」としてやがて全国に知られるようになります。
このように江戸時代、上は藩主・鷹山から、下は藩士や領民まで、倹約にいそしんだ米沢の人々。上杉鷹山の教えは今も受け継がれ、大切にされています。
最悪の財政難にも関わらず、自ら倹約を心がけ、仁政で立て直した鷹山の教えは、いつまでも古くなることはないでしょう。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
小野栄『シリーズ藩物語 米沢藩』(→amazon)