経済的手腕を見ても、人格的にも、出自を見ても、揺るぎようのないその評価。
たしかに江戸期No.1候補の名君でありましょう。
しかし、そんな彼にも無念としか言いようのない悲劇が襲いかかっております。
継室・於万の方による女難であり、正之の心に深い傷を残しました。
於万の方こと聖光院(しょうこういん)は元禄4年(1691年)7月8日が命日。
いったい保科に何が起こったのか?見てみましょう。
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「婦人女子の言、一切聞くべからず」と言い残すほど
正之が残したとして知られる「家訓十五ヶ条」。
子孫にあたる松平容保が、京都守護職を泣く泣く引き受ける際に持ち出されるこの家訓に、こんな一条があります。
・婦人女子の言、一切聞くべからず
この一条を書くに至ったのは、正之がある悲劇に直面したからでして。
実の娘が、その母親に毒殺されることになってしまったのです。
悲劇は、正室と側室の争いから起こってしまったのでした。
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正之の妻子
正之の正室は、菊姫という女性でした。
彼女との間には男児が一人授かったものの、夭折してしまいます。菊姫自身も早くに亡くなり、継室となったのは、お万の方でした。
お万は、正之にとっては異母姉にあたる東福門院和子に仕えていました。
夫婦仲はよかったのでしょう。彼女は正之との間に4男5女を授かります。
正之には他に、牛田氏、沖氏、沢井氏からの側室もおりました。
彼女たちにとって関心があるのは、我が子がどんな道を歩むか?
男児ならばもちろん藩主にしたいと願いますし、女児でもできるだけ格式の高い家に嫁いで欲しいと願うものです。
しかも正之は、将軍・徳川家光の異母弟です。
その姫たちとなれば、縁談はいくつも持ち込まれるワケで。当然、格式のある大名家に嫁ぎますが、これが悲劇の引き金となりました。
あの女の娘が格上の大名家に嫁ぐなんて!
お万の産んだ媛姫は、上杉景勝の孫・上杉綱勝に嫁ぐことになりました。
その三年後。
今度は牛田氏の娘・松姫が加賀藩主・前田綱紀に嫁ぐこととなります。
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大名家の縁談は将軍の許可なくしては決められないもので、決まったからには仕方の無いことなのですが……。
これに怒り心頭となったのがお万です。
自分の娘が嫁いだ上杉家は、謙信公以前からの超名門とはいえ、関ヶ原を機に120万石の石高を四分の一まで減らされ、30万石に過ぎません。
一方、側室の娘である松姫が、よりにもよって加賀百万石とは!
中宮である東福門院にも仕えていた、プライドの高いお万の怒りはおさまりません。
ただ、そうは言っても、この縁談を持ち込んだ将軍家に、不満をぶつけるわけにもいきません。
怒りの矛先は、松姫に向けられました。
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