承応二年(1653年)8月3日は、佐倉惣五郎が処刑された日です。
さっそく「誰なの?」と言われそうですが、そもそも実在したのか、やったことも確実なのかどうか、色々とアヤシイ人なので仕方がありません。
一応『国史大辞典』に記載はあり
「近世の義民の代表者とされる人物。しかし確実な史実は不明である」
となっています。
それでも取り上げたいのは、当時の社会情勢のある点をうかがう上で、ポイントとも考えられるからです。
まずはこの人の逸話から見ていきましょう。
お好きな項目に飛べる目次
「将軍様が上野へお墓参りに行くらしい」
佐倉惣五郎は、現在の千葉県成田市の名主だったとされています。
ある年、佐倉藩主・堀田正信が重税を強いたため、惣五郎を始めとした名主や農民は「何とかしてください」と訴えることにしました。
国元のお偉いさんには聞いてもらえなかったので、佐倉藩の江戸藩邸や老中に訴えます。
しかしあれもこれもうまくいかず、村の暮らしは困る一方。
そこで惣五郎は「将軍様が上野へお墓参りに行くらしい」という話を聞きつけ、ついに将軍への直訴を決意します。
この「将軍」は四代・徳川家綱、もしくは三代・徳川家光だとされています。「上野へお墓参り」は徳川家の菩提寺である寛永寺への参詣のことですね。
※以下は家光と家綱の関連記事です
江戸時代の指針を決めたのは家康ではなく徳川家光だった?法律 経済 外交に注目
続きを見る
こうして惣五郎は将軍の駕籠に駆け寄って直訴を行い、その罪で一家全員死罪となった……というのが定説です。
訴えは聞き入れられたそうなので、最低限の目的は達成できたことになるでしょうか。
大名行列でさえ土下座で何時間も見送らなければならない時代に、将軍の駕籠の近くまで行けるものなのか?
そんな疑念が湧くと思いますので、史実かどうか怪しい感じがしますよね。
なお、処刑後、惣五郎の遺体は地元の僧侶に引き取られ、現在「宗吾霊堂」と呼ばれるようになった……とされています。
そしてこの話には続きがあります。
惣五郎の呪い? 元藩主の正信が奇行に走る
惣五郎に訴えられた佐倉藩主・堀田正信が万治三年(1660年)、突如として幕政を批判した文書を幕閣に叩きつけかと思ったら、勝手に佐倉へ帰るという奇行を働いたのです。
幕政批判がタブーなのは言わずもがな、大名は地元へ帰るときに許可を取らなければなりません。
つまり合わせ技で一本どころではなく、あの知恵伊豆・松平信綱も「狂気としか言いようがない」と厳しいコメントをしています。
5才で将来を決めた天才・松平信綱「知恵伊豆」に欠点はないのんか
続きを見る
その結果、一ヶ月も経たないうちに処分が決まり、正信は改易の上で弟の飯田藩主・脇坂安政にお預けの身となり、寛文十二年(1672年)には安政の領地替えのため、小浜藩主で同族の酒井忠直の元へ預け替えられました。
しかし五年後に抜け出すと、今度は阿波徳島藩主・蜂須賀綱通に再三預け変えられるという、これまた不思議な経緯をたどっています。
正信は預かり先で著作にも励んでいますので、完全に壊れた感じではなかったと思われるのですが……徳川家綱が延宝八年(1680年)に亡くなったとき、正信は「ハサミで喉を突く」という珍妙な方法で殉死してしまいました。
この一連の奇行が「惣五郎の呪いでは?」といわれるようになり、霊を鎮めるために惣五郎の墓が地元に作られた……というパターンの話もあります。
その系統でいくと、
「正信は恥をかかされたため、惣五郎を腹いせに拷問の後処刑した。その恨みで正信に祟っただけでなく、佐倉藩のお偉いさんも次々と怪死した」
「佐倉周辺で血まみれの惣五郎の怨霊が目撃された」
などなど、余談にも事欠きません。
※続きは【次のページへ】をclick!