大河ドラマより緊張感が凄まじい!として、2023年に話題になったNHKドラマ10『大奥』。
シーズン1のラスト第10話で衝撃的な告白がありました。
徳川吉宗の腹心である加納久通が、吉宗を将軍にするため、次々に
「ライバル候補を排除した」
と言うのです。
「お前が殺したのか?」という吉宗の問いに対し、久通が落ち着いた声でこう答えたのです。
「はい、私が殺しました」
いっさいの躊躇なく殺害を肯定する表情には、背筋がゾッとしたと同時に、こう思われた方もいたでしょう。
まさか史実でもそんな事件が起きていたのか?
これが……
「そんなわけないでしょ!」
と、即座に笑い飛ばせない状況があることは事実。
吉宗が八代将軍に就任するまでに、七名もの重要人物が立て続けに亡くなっているのです。
ズラリと並ぶ徳川家の面々。
中にはどう見ても「暗殺じゃないよな」という方もいますが、一方で「否定しきれないかも」と思わず信じてしまいそうな方もいます。
いったい何が起きていたのか?
享保元年(1716年)8月13日は、その吉宗が将軍に就任した日。
当時の状況を振り返ってみましょう。
※以下は加納久通の関連記事です
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紀州藩三代目・綱教から雲行きが怪しくなっていく
徳川吉宗を輩出した紀州藩。
その初代は家康の十男・徳川頼宣です。
初代家康~四代家綱あたりの時代には、まだ世の中にも戦国気質が残っていましたが、頼宣本人もなかなか物騒というか腹黒いというか大胆というか、まぁそんな感じの人です。
同時に、愛妻家だったりユーモアがあったりして憎めないんですよね。
※以下は徳川頼宣の生涯まとめ記事となります
家康十男・徳川頼宣が豪気!紀州藩祖は謀反疑惑も笑って「めでたい」
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二代目は頼宣の長男・光貞です。
何だか刀の銘にありそうですね。「光」も「貞」も刀匠の名前でよくありますし。
こちらは頼宣と比べるとより文治型の人で、法律の整備を進め、いつの時代も舵取りの難しい”二代目”を見事こなしました。
将軍でいえば徳川家綱~徳川綱吉の時代です。
四代将軍・徳川家綱を地味将軍と言うなかれ 実は好感度エピソード満載な人だった
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ここまでは順調だったのですが、次の三代目・綱教(つなのり)から雲行きが怪しくなってきます。
彼もまた光貞の長男ということでスムーズに家督を継いだのですが、39歳で突然亡くなってしまったのです。
藩主になってから7年、財政再建に取り組みながら、その結果を見ることなくこの世を去ってしまいました。
特に持病があったという記録もないので、何だかイヤな感じがしますね。
吉宗が藩主になってからも将軍が立て続けに……
三代目・綱教には子供がいなかったので、弟の頼職が養子になって四代藩主の座に就きます。
「弟が義理の子供」というと妙な感じがしますが、当時はお家断絶を防ぐためによくやることでした。
しかし、頼職もまた26歳という若さで亡くなってしまいます。
しかも藩主を継いでからたった三ヵ月後のことでした。
同じ宝永二年(1705年)の7月に綱教が亡くなり、9月に光貞が亡くなっていたため、紀州藩は新旧三人の主の葬儀を立て続けに出すという、戦国時代でも無さそうな事態に陥ります。
元々傾いていた藩財政は、だめだこりゃ状態。
こんな超速の代替わりは紀州藩だけでしたので、将軍はまだ綱吉のままです。
綱吉の時代って意外と長いんですよね。
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そして綱教・頼職の弟である吉宗がいよいよ五代目として大ナタを振るうことになるのですが、さすがにここまで来ると「きな臭いってレベルじゃねーぞ!」って言いたくなりますよね。
しかも吉宗が藩主になって四年後に綱吉が亡くなり、六代将軍・徳川家宣も就任から三年で死去。
さらに七代・徳川家継は生来病弱だったため、たった6歳で亡くなってしまいました。
家継に関しては生前から後継者問題が持ち上がっていたので、ある程度次代を誰にするかという話が持ち上がっていたのですが、血の近い順ということで吉宗も候補に入っていました。
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