相馬大作事件

怨恨の当事者である南部信直(左)と津軽為信(右)/wikipediaより引用

江戸時代

津軽と南部はいつから犬猿の仲だった?相馬大作事件は戦国時代からの怨恨で勃発

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大作の藩主が死んだ それもこれも津軽のせい?

私塾の会計担当がコレラで亡くなったり。

浜松に作る予定だった私塾の分校が台風で流されてしまったり。

地元に戻ってからの相馬大作には、何かと不幸が続きました。

もし彼がもう少し信心深い人だったら、この時点で「何か悪いことが起きるのかもしれない。自重しなくては」と思ったかも知れませんが、そうはなりません。

このころときの盛岡藩主・南部利敬(としたか)が39歳の若さで突如亡くなったことで、大作はトンデモナイ方向へ発想を飛躍させてしまうのです。

「藩主様はまだお若いのに亡くなるなんて……これはきっと、津軽のヤツらへ怒りを積み重ねてのことに違いない!」

藩内の不幸を津軽への恨みに変換し、なんと当時の弘前藩主・津軽寧親(やすちか)に脅迫状を送ってしまうのです。その内容は……。

「今すぐ隠居しないと、どうなるかわかんないよー^^」(超訳)

というテロ予告にも等しいものですが、受け取った寧親はこれを無視し、通常通り仕事を続けました。

幕府に届けても面倒になるだけだし、オトナの対応をしたんですね。

しかし、大作は諦めません。

文政4年4月、参勤交代の途中で寧親を襲う計画を立て、張り込みを開始。大砲や鉄砲まで持ち出していたというのですから、本気でした。

そして……。

 

江戸に逃亡するも私塾を開いてアッサリ御用

いつまでたっても寧親一行は現れませんでした。

実は、大作の父の元に出入りしていた刀鍛冶が、偶然、この計画を知り、津軽家へ密告していたのです。

脅迫状はハッタリ扱いしていたであろう津軽家でも、具体的な計画があるとわかれば、わざわざ火の中へ飛び込む気にはなれなかったでしょう。

津軽の一行は、途中で道を変え、難を逃れることができました。

現在の秋田県大館市、国道7号線付近の岩抜山で事件は起きた(というより未遂)/photo by らんで Wikipediaより引用

一方、失敗を悟った大作は、盛岡藩に累が及ばないよう、再び江戸へ向かいました。

そして、生計のためなのか、事もあろうにまた道場を開いてしまいます。

『隠れる気あるんかーい!』

そうツッコミたくなるように、彼はアッサリ見つかり、弟子の一人と共に処刑されています。

享年34なので、もしこんなことをせずに生きながらえていたら、戊辰戦争で盛岡藩の一員として活躍していたかもしれません。

腕も学もあった人なのは確かでしょう。

そう考えると、盛岡藩にとっては惜しい話かもしれませんね。

他藩や外国でも「数百年越しの恨み」というのはままある話ですが、やはり双方が「解決しよう」という意思を早めに持つことが大事なんでしょうね。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon
相馬大作事件/Wikipedia

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