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【相馬大作事件】
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大作の藩主が死んだ それもこれも津軽のせい?
私塾の会計担当がコレラで亡くなったり。
浜松に作る予定だった私塾の分校が台風で流されてしまったり。
地元に戻ってからの相馬大作には、何かと不幸が続きました。
もし彼がもう少し信心深い人だったら、この時点で「何か悪いことが起きるのかもしれない。自重しなくては」と思ったかも知れませんが、そうはなりません。
このころときの盛岡藩主・南部利敬(としたか)が39歳の若さで突如亡くなったことで、大作はトンデモナイ方向へ発想を飛躍させてしまうのです。
「藩主様はまだお若いのに亡くなるなんて……これはきっと、津軽のヤツらへ怒りを積み重ねてのことに違いない!」
藩内の不幸を津軽への恨みに変換し、なんと当時の弘前藩主・津軽寧親(やすちか)に脅迫状を送ってしまうのです。その内容は……。
「今すぐ隠居しないと、どうなるかわかんないよー^^」(超訳)
というテロ予告にも等しいものですが、受け取った寧親はこれを無視し、通常通り仕事を続けました。
幕府に届けても面倒になるだけだし、オトナの対応をしたんですね。
しかし、大作は諦めません。
文政4年4月、参勤交代の途中で寧親を襲う計画を立て、張り込みを開始。大砲や鉄砲まで持ち出していたというのですから、本気でした。
そして……。
江戸に逃亡するも私塾を開いてアッサリ御用
いつまでたっても寧親一行は現れませんでした。
実は、大作の父の元に出入りしていた刀鍛冶が、偶然、この計画を知り、津軽家へ密告していたのです。
脅迫状はハッタリ扱いしていたであろう津軽家でも、具体的な計画があるとわかれば、わざわざ火の中へ飛び込む気にはなれなかったでしょう。
津軽の一行は、途中で道を変え、難を逃れることができました。
一方、失敗を悟った大作は、盛岡藩に累が及ばないよう、再び江戸へ向かいました。
そして、生計のためなのか、事もあろうにまた道場を開いてしまいます。
『隠れる気あるんかーい!』
そうツッコミたくなるように、彼はアッサリ見つかり、弟子の一人と共に処刑されています。
享年34なので、もしこんなことをせずに生きながらえていたら、戊辰戦争で盛岡藩の一員として活躍していたかもしれません。
腕も学もあった人なのは確かでしょう。
そう考えると、盛岡藩にとっては惜しい話かもしれませんね。
他藩や外国でも「数百年越しの恨み」というのはままある話ですが、やはり双方が「解決しよう」という意思を早めに持つことが大事なんでしょうね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
相馬大作事件/Wikipedia