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【柳沢吉保】
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引き際もまた見事なり
吉保は綱吉の引き立てで一気に出世した人ですから、綱吉が亡くなれば後ろ盾を失うことになります。
大体の場合、そういう立場の人は見苦しく居残ろうとして政争に敗れ、悲惨な末路をたどるケースが多いですよね。
しかし、彼は引き際も見事なものでした。
綱吉が亡くなって二ヶ月後。
徳川家宣が無事に将軍職を継承したことを見届けてから、吉保は自ら隠居を願い出ているのです。
息子の柳沢吉里が家督を継ぎましたが、幕閣の一員になろうとはせず、甲府藩の内政に力を注ぎました。
後に吉宗の時代になってから大和郡山藩へ移封されていますが、吉里に落ち度があったわけではなく、前の藩主だった本多氏(こちらは忠勝の末裔)が断絶したからでした。
吉里とその子孫はこの地に根付き、無事に幕末まで続いています。
総じて、吉保とその子孫は「分をわきまえて行動する真面目な一族」だったといえるでしょう。
ここからは私見ですが……。
徳川綱吉は儒学を重んじ、出自や上下関係を大事にしていた人です。
それでも吉保のように、元の身分が高くない人をこれほど取り立てたのは、他の幕閣や下の人間にハッパをかける意図が多少あったのかもしれません。
さらに、綱吉が気に入った&学問の面でもウマが合うという好条件と、吉保自身の能力がかみ合い、異様なほどの加増をするにふさわしいと認めた人物だったのではないでしょうか。
吉保自身、それがわかっていたからこそ、驕り高ぶることなく、下手に敵を作らずに済むよう行動していたのでしょう。
うまく行き過ぎていて知名度とイメージが弱いですけれども、それが真の保身とも言える気がします。
六義園に感じられる気品や好み
享保九年(1714年)。
東京・駒込の六義園(りくぎえん)で柳沢吉保は息を引き取ります。
享年57。
六義園は、彼の別荘でした。
都心にある紅葉の名所として知られていますので、現地を訪問された方もおられるかもしれません。
吉保の時代から手が入れられているとはいえ、一代で成り上がった人らしからぬ気品というか、成金趣味みたいなものが全くないところです。
庭については吉保自ら工事を采配したといわれていますので、彼の人柄や好みもうかがえるかもしれません。
都心にも意外と「元大名屋敷」な紅葉スポットがあります。
六義園を皮切りにいろいろまわってみるのも、ちょっとした社会科見学で楽しいかもしれません。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『歴史読本2014年12月号電子特別版「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
『歴史読本2013年1月号電子特別版「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
柳沢吉保/wikipedia