柳沢吉保

柳沢吉保/wikipediaより引用

江戸時代

旧武田家臣の末裔だった側用人・柳沢吉保~どうやって江戸幕府で出世したのか

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
柳沢吉保
をクリックお願いします。

 


綱吉は吉保邸へ58回も御成している

以降もトントン拍子に加増と昇進+αが続きました。

時系列に沿ってまとめておきますと……。

元禄三年(1690年)二万石加増&従四位下叙任

元禄四年(1691年)常盤橋内に屋敷を拝領 以降、綱吉は吉保邸へ58回も御成している

元禄五年(1692年)三万石加増

元禄七年(1694年)一万石加増

元禄八年(1695年)侍従叙任&老中格へ昇進、領地替えで武蔵国川越城主へ

元禄十年(1697年)二万石加増 寛永寺の根本中堂造営惣奉行を任される

元禄十四年(1701年)松平姓と「吉」の字を与えられ、出羽守から美濃守に遷任

この間、元禄13年(1700年)頃、吉保は武田信玄の次男の子孫とされる武田信興を綱吉に引きあわせ、高家(幕府の儀式などを担当する家柄)として再興させています。

絵・富永商太

これが縁で、高家武田家は柳沢家から複数回養子を迎えました。

武田旧臣の家系である吉保が、旧主の子孫を救った……という感じですね。イイハナシダナー。

 


他の老中たちに妬まれることもなく

にしても凄まじいのは出世っぷり。

傍系とはいえ主家・武田の再興を申し出てて、しかも成功していることからして、吉保がやろうと思えば、もっと専制的な立場になることもできたでしょう。

しかし柳沢吉保は私利私欲のための政治的活動はほぼしません。

上記の加増にしても、吉保から綱吉にねだったものでもありませんし、一回の加増量も法外とはいえません。

そのためか、こういうケースでもっとも対立しやすい他の老中たちとも、比較的穏便な関係を築いています。

人の心の中はわからないので、もしかしたら、そういう「敵を作らずに所領や官位を得る」ことが目的だったかもしれませんが……その辺は下衆の勘繰りというものでしょう。

少なくとも、綱吉の吉保に対する信頼は、生涯揺るぎないものでした。

綱吉は早いうちに跡取り息子を亡くしており、その後も男子に恵まれなかったため、甥にあたる甲府徳川家の徳川綱豊(家宣)を養子に迎えています。

徳川綱豊徳こと六代将軍・徳川家宣/wikipediaより引用

そしてその後、空いてしまった甲府城主の座を、綱吉は吉保に与えました。

この時点での甲府は、徳川氏にしか与えられない特別な土地です。

例外にしてまで吉保を後任にしたのは、彼の政治的能力が評価されたからに他なりません。

 


江戸からの指示も評価は悪くない

吉保は綱吉の期待によく応え、家中に新しい法度を作ったり、良い藩政を行うよう努めました。

彼自身は甲府に行くことはありませんでしたが、江戸から指示を出し、おおむね高い評価を得ていたようです。

藩主としての吉保は、

・甲府城や城下町の整備
・検地の実施
・用水路の整備
・実質的な減税政策

などを行っています。

また、武田信玄の百三十三回忌法要を営み、甲府住民にとっての旧主を重んじる姿勢と、自分もその末裔であることを強調しています。

現代人の感覚だと「そんな昔の人のことを大事にしても意味ないじゃん」と思ってしまいますが、この時代の一般人は「地元のお殿様」に対する好印象が強ければ強いほど、後任者への風当たりが強くなります。

甲府城稲荷櫓

甲府でいえば、綱豊(家宣)はもちろん、武田信玄も慕われていました。

彼らを軽んじてやりたい放題やろうとしても、うまくいかないわけです。

しかし、吉保自身が旧武田家臣の血を引いていますから、これは大きな武器になりました。

詳細は不明なものの、吉保の側室には公家出身の女性がいたと考えられており、彼女らを通じて公家や朝廷との付き合いもしていたとか。

そつがないというか、人との距離感を保つのがうまいというか……全て計算尽くだったとしたら、空恐ろしいほどのコミュ力です。

※続きは【次のページへ】をclick!


次のページへ >



-江戸時代
-

×