曲亭馬琴

曲亭馬琴/国立国会図書館蔵

江戸時代

曲亭馬琴は頑固で偏屈 嫌われ者 そして江戸随一の大作家で日本エンタメの祖

2024/11/05

大河ドラマ『べらぼう』で今最もウザいキャラクターと言えば?

満場一致で滝沢瑣吉という答えが返ってくるでしょう。

耕書堂の下っ端手代であるにも関わらず大口を叩き、歌麿が男色であると本人に向かって指摘、美人と評判の町娘に対しては「来てやったぞ、ガハハハハ」と、とにかく厚かましい。

一体こいつはなんなんだ?

というと史実では「曲亭馬琴」として知られる大作家なのですから不思議なものです。

かつては「滝沢馬琴」という名でも知られ、現在では用いられておりませんが、それでいて『岸辺露伴は動かない』に出てくる漫画家・岸田露伴の愛犬「バキン」の名前も彼からとられたとかで今も根強い支持と知名度がある。

もしかして劇中での、厚かましいスタイルは大幅な脚色?

いえいえ、この馬琴、当時から性格的にかなりの難があり、交友関係は乏しく、近寄りがたい存在でした。

同時代の文化人たちからは「傲慢で性格最低な野郎だ」と敬遠され、師匠である山東京伝との関係すらもかなり複雑であり、京伝の弟・山東京山からは「恩知らず」と罵倒されています。

打算ありきで結婚した妻の百にしても何かとトラブルがち。

とにかく“嫌われ者の作家”という評価が定番でしたが、明治時代になって彼の日記が発見されると、馬琴は馬琴で苦しんでいた、寂しい人――そんな評価も後世では付けられてゆきます。

ヒット作を連発し、日本におけるエンタメの基本形を作ったとも言える曲亭馬琴とは一体どんな人物だったのか?

曲亭馬琴(滝沢馬琴)/国立国会図書館蔵

嘉永元年(1848年)11月6日はその命日。

生涯を振り返ってみましょう。

🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説

 


武士の子として生まれた強情な少年

明和4年(1767年)、江戸深川の旗本・松平信成の屋敷で、後に曲亭馬琴となる男児が生まれました。

幼名は倉蔵。

父は信成に仕える滝沢興義で、母は門です。

夫婦にとって五男である馬琴は、上に四人の兄がいました。ただし次兄と三兄は夭折しており、実質的には三男のような扱いでした。

父の代からますます待遇が悪化した下級武士の家に生まれ、しかも三男となれば、この時点で厳しい人生が待ち受けていることがわかります。

『べらぼう』ですと小田新之助に近い境遇といえます。

そんな彼は幼いころから聡明で勉学を好む一方、強情で頑固、カッとなると暴力的になるところがあったと伝えられています。彼なりの鬱屈もあったのかもしれません。

父の滝沢興義は酒と犬を好む剛毅な人物。

それで深酒がたたったのか、安永4年(1775年)、倉蔵がまだ9つのときに急病死してしまいました。

兄・興旨が家督を継ぐも、わずか17歳だったため、禄は半減。

しかも翌安永5年(1776年)に、わずか一年で滝沢家を去って戸田家に移ってしまい、下の兄も他家に仕えていたため、まだ10歳の倉蔵に滝沢家の家督が巡ってきました。

 


出奔を繰り返す放浪時代

倉蔵は一人で滝沢家に残り、主の孫である八十五郎の相手役を務めます。

しかし、この八十五郎がどうにも倉蔵には耐えがたかった。

身体虚弱であることは仕方ないにせよ、愚鈍としか思えない。しかも横暴で、何か気に入らないことがあると怒鳴りつけ、しばしば暴力までふるったのです。

馬琴は成長してからも相手が誰であろうと素っ気ない対応をしていましたから、たとえ主君の孫であっても許すことができなかったのでしょう。

安永9年(1780年)、こんな書き置きを残して、突如、出奔してしまうのです。

木がらしに 思いたちたり 神の供

弟の出奔に驚き胸を痛めた兄は、戸田家に仕える自分のもとに倉蔵を引き取ると、その後は元服して興邦と名乗り、徒士として仕えることとなりました。

訳あり出奔した頑固な弟です。

兄や母としては、やっと就職先を見つけたといったところでしょう。

しかし本人は「俺は徒士でおさまる器じゃない」と野心をたぎらせながら、ひたすら狂歌を詠み、文章を書くことにばかりかまけていました。

そして天明4年(1784年)、戸田家すらも出奔してしまいます。

兄としても面目がたたず、弟の罷免を主家に申し出ると、ついに自由を手にした興邦。

やる気がないなら人間関係を破壊してでも自由を求める――後に周囲を呆れさせるこの悪癖は若い頃から一貫していると言えるのかもしれません。

天明5年(1785年)、苦労を重ね、病に苦しんでいた母・門が亡くなりました。

手元には22両ものへそくりがあり、子どもたちで分けるようにと言い残していました。この母が危篤となったとき、家族が興邦を探し回ったというのですから、困ったもの。

このころの興邦は、叔父・田原忠興や前述の戸田家はじめ、いくつもの場所を転々としていました。

あるときは俳諧。あるときは医術。

腰を落ち着けることなく、住む場所も職業も変転する放浪時代でしたが、彼も単に遊んでいるわけではなく、むしろその誇り高さゆえに折れることができず、腰が落ち着けられなかったのです。

なお、そんな主家を転々とした辞職理由には、若気の至りとしか思えぬものもあります。

性病にかかり、長兄の看病のもと、療養を一年ほど続けていた時期もあるのです。金のない若い男には吉原など夢のまた夢。最下層の悪所に足を運び、そんな目に遭ってしまったのでしょう。

流浪の中、彼は「馬琴」の号を用いるようになります。

おなじみの名がでたところで、彼のわかりにくい名乗りを整理しましょう。

姓:滝沢

幼名:春蔵→倉蔵

元服後の武士としての名:興邦(おきくに)

結婚後の町人としての名:解(とく)

通称:佐七郎→瑣吉→清右衛門

号:曲亭馬琴

さて、かつてはよく用いられ、本人もそう記したことのある「滝沢馬琴」。これが彼のプライドをいちいち傷つけるものでありました。

武士としての身分を失った時点で失われた「滝沢」と、武士でなくなったからこその号である「馬琴」――この組み合わせは彼の罪悪感を刺激します。

武士を捨てて号を名乗ったと、この四文字はつきつけてくるようなものです。

そのため、自分でも一時使っておきながら、他者が使うと不快だと怒りを募らせてきたのです。

そんな彼の意向を重んじてか、近年は「曲亭馬琴」を使うことが定着しつつあります。

なお、『べらぼう』では「滝沢瑣吉」として初登場する予定です。

ここからは「曲亭馬琴(馬琴)」で統一しましょう。

寛政2年(1790年)、馬琴は一人の文人を師とさだめます。

人気戯作者の山東京伝です。

山東京伝/wikipediaより引用

このとき馬琴24歳。

酒一樽を土産に、思い詰めた様子でやってきた馬琴。この得体の知れない男に京伝は困惑しました。

そもそも絵師とは異なり、戯作者は入門する形式ではない。これまでも弟子入りを許したことはない。そう食事と歓談をしながら諭し、とりあえず帰らせました。

しかし、このあと弟の京山にこうそっと告げます。

「あの男はちょっと才知があるねェ。今度きたら、居留守を使わず二階にあげてやりな」

かくして弟子にするとは言わないものの、出入りを許すことにします。

そこには恵まれた家で育った京伝らしい鷹揚さがありました。

ただ、この曖昧な経緯のためか、馬琴は「弟子になった」と思い込み、京伝は困惑するも否定できないという、ややこしい関係になります。

しかも馬琴は、のちに作品論やらなにやら、京伝に吹っかけることもあります。温厚な京伝は苦笑しつつかわしていたものの、弟の京山は許せません。ともに長寿であった馬琴と京山は、老境に入ろうが対立し続けることになるのでした。

 

山東京伝のもとで食客 蔦屋重三郎のもとで手代

曲亭馬琴は、水を得た魚のように、才能を発揮し始めました。

洪水により、深川の家を失った馬琴は、京伝の食客として居着くと、執筆に邁進。

一方で師匠の京伝は、ちょうどこのころ戯作者として「手鎖」の刑を受けてしまいました。

経済が活性化した田沼意次の時代が終わり、松平定信の改革が始まると出版物にも取締りが及ぶようになり、人気作家である山東京伝はスケープゴートのように罰を受けてしまったのです。

松平定信/wikipediaより引用

育ちがよく、温厚で気弱なところもある京伝は、執筆意欲を失ってしまいます。

こうして、すっかり落ち込んだ師に代わり、ぐいぐいと精力的に代筆をこなしていったのが馬琴でした。

いつしか馬琴はその才能を見込まれ、寛政4年(1792年)には蔦屋重三郎のもとへ手代として雇われます。

しかし、武士としての誇りがある馬琴はこれを屈辱に思っていたようで、どうにもやる気が出ず、自分の創作に必要な教養を吸収することばかりに執心。

剛毅な蔦屋重三郎もこれには困りはて、手放したいと思うようになったようです。

大河ドラマ『べらぼう』ではどんな風に描写されるか、楽しみなシチュエーションですね。

 


結婚により身を固める

寛政5年(1793年)、そんな曲亭馬琴のもとへ、山東京伝や蔦屋重三郎から縁談が持ち込まれます。

はじめの縁談は、吉原生まれの蔦屋重三郎の親類とのことで、器量良しで裕福な茶屋の娘であったとか。『べらぼう』ならば次郎兵衛の娘あたりかもしれませんね。

馬琴は流石に吉原には婿に入れないと断りました。かくして次のさらなる縁談が持ち込まれます。

彼らとしても、馬琴という暴れ馬に縄をつけたかったのかもしれません。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用

縁談相手は履物屋・伊勢屋の会田百で馬琴より3歳上――27歳の夫と30歳の妻でした。入婿ながら、馬琴は「滝沢」を名乗り続けることになります。

百は、初婚でもなく美貌でもなく、眇(すがめ・斜視のこと)で性格は難あり。

負けん気が強く、馬琴の教養についていけず、全く話があわず、しかもそのことに苛立ち周囲に当たり散らしたのです。

馬琴も、そんな妻に歩み寄る気持ちはさらさらありません。

彼にとっては商人をやめ、武士として滝沢清右衛門と名乗れることが重要でした。

婿入りしておきながら、馬琴は嫁ぎ先の商売を嫌いました。人に踏まれる履物を扱うなぞ、下劣だと見下したのです。

実際、寛政7年(1795年)に義母が亡くなると、履物商をキッパリとやめ、手習師匠となりました。

この結婚は打算ありきで、愛情は一切なかったと思われます。

百は悪妻と評されますが、馬琴も気の利かぬ夫であり、打算での縁談である以上、彼女だけが悪いわけでもないでしょう。

ともあれ馬琴はこの結婚により身を固め、主家を出奔した以来の長い放浪人生に終わりを告げ、夫妻は一男三女に恵まれました。

長女・幸(さき):寛政6年(1794年)生まれ

二女・佑(ゆう):寛政8年(1796年)生まれ

長男・鎮五郎:寛政9年(1898年)生まれ

三女・鍬(くわ):寛政12年(1800年)生まれ

履物屋をやめたあと、一時期は手習の師匠であった馬琴。

しかし、筆一本の作家稼業で喰っていけるようになると、手習もやめてしまいました。

 

読本作家として全盛期に突入

寛政8年(1796年)に而立(じりつ・30才)を迎えた馬琴は作家としての全盛期に突入。

元々の才能に加えて、培ってきた知識も豊富にあり、【黄表紙】や【草双紙】といった当世流行の作品をそつなくこなしていくうちに得意のジャンルを見出します。

文化元年(1804年)、『月氷奇縁』から始まる【読本】です。

この【読本】は、まさにこの時代らしい流行――中国の【白話小説】の影響を受けて描かれた、長編伝奇小説ともいえるジャンルです。

日本では古来より、漢籍を受容してきました。

日本ならではの読解法である【書き下し】は、唐代あたりまでの中国語文法に適しており、それ以降は読解が難しくなります。

文語体で書かれた漢籍は読みこなせても、口語を取り入れたジャンルとなるもどうにも読解が厳しい。

なんせ【白話小説】とは、文語体ではなく口語体(=白話)で書かれた小説のことでした。

本場からすれば読みやすく親しいジャンルですが、日本人にとっては難解になってしまう。

このため同じ明代に成立した小説でも、日本での受容時期は異なったりします。

例えば文語体である『三国志演義』は解読しやすく、各地で藩校が作られると教科書として採用されました。

一方で『水滸伝』などは【白話】を駆使するため、読解をするのにタイムラグが生じる。

読みこなして翻訳が広がり、定着してゆくのは、江戸時代も折り返し地点を過ぎてからでした。

なお、江戸後期は、明代がブームになります。

明の後に成立した清は満洲族の王朝であり、何か違和感が生じるし、時代を遡って唐代では読み手も慣れきっていてもう古い。

しかし、明代ならば新しくて何か洒落ている――として新しいトレンドに乗りたい人びとは、明代風を取り込んでゆくのです。

例えば書道などもそうです。

江戸時代の公式字体ともいえる書体は【青蓮院流】、または【御家流】の名前で知られます。

【和様】、すなわち日本式書道の頂点とされ、武士から寺子屋まで、なるべくこの字体に近づけることが修練でした。

しかし、もっとオルタナティブな達筆をめざしたいものたちは【唐様】(からよう)を手本とします。

主流とは異なる字体で、反抗心や流行を追うスタイルを示すのです。

この【唐様】の代表格は、明代の文徴明や董其昌とされます。

江戸時代後期や幕末には「あの人は文徴明のような字だ」ということがよく言われましたが、それはただ達筆を褒められるだけでなく、センスも良いという意味になりました。

明代のファッションアイテムとしては【大明頭巾】があります。

紫縮緬の防寒用で、はじめは男女双方、のちに女性のものとされました。

別名は【御高祖頭巾】――この名前は明の初代皇帝・朱元璋が被った頭巾に似ているからとされます。

しかし、朱元璋は「太祖」であるし、頭巾も紫色ではありません。女性専用というのも奇妙な話です。ファッションであるため、そのあたりが曖昧に伝わったのでしょう。

馬琴は、長男の嫁を決める際、関帝籤、つまり関羽のお告げであるおみくじを引いています。

これ、妙な話だとは思いませんか?

今現在、関羽のおみくじを引くとすれば、道教の施設である関帝廟に向かうしかありません。

華佗の医術で肘の切開手術を受ける関羽/wikipediaより引用

では馬琴は関帝廟に向かったのか?

というとそんなことはなく、普通、おみくじは寺社仏閣で引くものです。

つまり、この時代に関帝という神様を知った日本人は「関帝の言葉を使っておみくじを作れば、人気が出ること間違いなし!」と考え、寺社仏閣でも広まったのです。

なにせ関羽は日本でも大人気です。

ありがたいお告げがおみくじになったとなれば、こぞって引くこと間違いなし。道教神であり、日本由来でないことなど、この際どうでもよいのです。

これは漁業や航海を司る道教の女神・媽祖(まそ)にもあてはまります。ありがたい女神として、素朴に媽祖を讃えている日本人はおりました。

明治時代になり、神道のこうした状態を整理し、神社での関帝籤は廃止されております。

馬琴は、こうした江戸の最先端であった「唐様」「明代」ブームをより深く取り入れた作家でした。

語学力に長けているため明代の【白話小説】も読解できる。

名場面をアレンジし、自作に取り込む――そんな作風が読者の心を掴むのです。

しかも彼には他の武器もありました。

商業を重視した田沼意次時代は、世間一般でも軽妙洒脱な気風が流行し、馬琴の師である山東京伝が人気作品を立て続けにヒットさせました。

こうした、チャラい気風を引き締めることが、ポスト田沼時代の流れです。

松平定信の厳格な取締に対し、山東京伝や蔦屋重三郎たちはすっかり参ってしまい、たしかに馬琴も、弾圧を受ける創作側にいました。

しかし、彼には彼なりの個性と気質があり、武士であることを誇りとしていたため、お堅い作風となります。

軽妙洒脱よりも質実剛健は、このころ変化した時代の流れに一致。

師匠の山東京伝が伸び悩む一方で、馬琴の作品は次々に売れていったのは、時代の流れも影響したのでしょう。

馬琴は文化4年(1804年)、源為朝が大暴れする傑作『椿説弓張月』を発表。

源為朝/wikipediaより引用

さらに10年後の文化11年(1814年)には『南総里見八犬伝』の刊行を始めます。

そしてその2年後の文化13年(1816年)、恩人であり、師であった山東京伝が没しました。

時代の移り変わりを象徴する出来事と言えるでしょう。

 

中国古典を使いこなす驚異的な創作テクニック

馬琴の代表作ともいえる『南総里見八犬伝』は、驚きに満ちた冒頭部から始まります。

以下にざっと要約いたしますと……。

里見義実は、安西景連により攻められ、もはや家は滅びる寸前となった。

このとき義実は、愛娘である伏姫の愛犬の八房に語りかける。

「もしも憎き敵の首を取ってくれば、お前に伏姫をくれてやろう」

すると八房は姿を消し、景連の首を取ってきた。

伏姫は犬であろうと約束は約束であると父を説き伏せ、八房と共に山中へ姿を消す。

やがて伏姫は身の異変に気付く。

八房との間に子が宿ったのか、犬の子を産むなど屈辱の極み――そう悩んだ伏姫は自害をしようとする。

そして許婚が伏姫を見つけたそのとき、彼女が腹を切ると、光る八つの玉が飛び散った。

あまりに衝撃的な内容ですが、元となる話はあります。

中国の怪異伝説を記した『捜神記』にある盤瓠(ばんこ)という犬の話です。

敵に攻められた高辛氏が、敵将を討った者に娘を娶せると御触れを出すと、盤瓠という犬が首を取ってきたというものです。

そして、この話の後半部は「盤瓠と娘の間に子が生まれる話」となるのですが、馬琴はこの後半部を変え『水滸伝』と組み合わせました。

封印された百八の魔星が飛んでゆき、英雄好漢女傑に宿る――伏姫の体から飛んだ玉を持つ八犬士をめぐる物語は、かくして始まるのです。

インプットした知識をアレンジしてエンタメ化する。

馬琴は、そんな才能に恵まれた作家でした。

大長編となったこの『南総里見八犬伝』は、実に連載期間は28年に及び、馬琴のライフワークとなっています。

江戸時代の大長編連載作家といえば『膝栗毛』シリーズを21年間書き続けた十返舎一九がいます。

十返舎一九/国立国会図書館蔵

十返舎一九は、大ヒット作が『膝栗毛』のみであり、作者本人も辞めるにやめられなかったような哀愁を感じさせるものです。

しかし馬琴の場合、生来の執拗な性格と溢れる生命力が人生の一部となり、この大長編を生み出したような荘厳さをも感じさせます。

作家としての力量は本当に申し分ない。

その一方で私生活は苦労の連続でした。

 

馬琴の大変な家庭事情

馬琴の師である山東京伝は、生き方そのものが優雅で風流そのものです。

最初の妻も、その妻の病死後に娶った再婚相手も遊女の出身であり、熱烈な恋と真摯な愛情がある夫婦となりました。

では、その弟子・曲亭馬琴は?

というと、前述の通り打算による結婚であり、妻の百とは生涯理解しあえることはなかったといえます。

しかし二人は一男三女に恵まれており、その子供たちから見た馬琴は、おそるべき毒親でもありました。

親としての愛情は深い。

ただ、あまりに重い。

馬琴は娘の結婚相手を厳しく吟味し、気に入らぬことがあれば交際に猛反対し、その仲を引き裂きました。

それでもようやく長女の幸が清右衛門という婿を迎え、分家を作ることができました。

一人息子の鎮五郎は、大変な重圧と共に生きていました。馬琴の兄たちは全員彼よりも息子を残さぬまま先に亡くなっています。末弟である馬琴の男子に滝沢家を継ぐ役目が回ってきていたのです。

父は大柄で頑健です。馬琴は力士にスカウトされたこともあるとか。しかし息子は虚弱体質で気も弱い。

馬琴は我が子に期待をかけ、ともかく厳しく育てあげます。

その辺の平凡な子と遊ぶことすらよしとせず、行儀作法を叩き込むと、やがて彼は信心深く、織り目正しい青年に成長してゆきました。

馬琴は己が挫折した医術を極めさせようとし、「宗伯」と名乗らせます。

そして『べらぼう』視聴者であればこそ腑に落ちる進路を辿ることになるのです。

曲亭馬琴には大名家にも多くのファンがいました。松前藩の元当主・松前道廣もその一人です。『べらぼう』ではえなりかずきさんが扮し、おそるべき暴君として印象を残したものです。

そんな道廣の統治時代、上級武士ともなれば【黄表紙】の類をこっそり読んでいようと、そのファンであることを大っぴらにはしないものでした。

それが時代が下り、曲亭馬琴全盛期の【読本】時代となれば、何も憚ることはない。文化受容の変化を感じさせますね。

松前藩は蝦夷地支配の不手際ゆえに上知(藩領没収)され、奥州梁川藩に移されていた時期があります。このころの当主であり、道廣の子である松前章廣に、宗伯は医師としての出入りを許されたのです。

これで武家としての滝沢家復帰が叶う――馬琴はそう喜んだものの、宗伯はとにかく病弱です。

父の名声があるからこそ、日々の勤務ができなくても俸禄を与えられる立場であり、こんな状況が続けば、精神が鬱屈し、精神的に追い詰められてもおかしくないでしょう。

宗伯は、妻の路(みち)を娶りました。

ところが宗伯はこの妻を労わろうとするどころか、自身の鬱屈を彼女にぶつけました。

その様はあまりに理不尽。路が病に苦しんでいても、服薬すら許さず、ときに癇癪を起こして妻を殴る。

今でいうところのDV夫です。

人は往々にして、受けたストレスをさらに下位の者にぶつけることで発散すると言いますが、宗伯からは、まさにそんな不健全な精神性を感じさせます。

馬琴と百は仲が悪い。

宗伯は父の目をうかがい、鬱屈を路にぶつける。

百も路をいびる。

あまりに殺伐とした家庭ですから、自邸で働く下女も長く続かない。

そうした様子は、細やかにつけられた馬琴自身の日記によって伺えます。

馬琴はあまりに几帳面でした。

一日のルーチンにこだわりがあり、部屋にあるものを勝手に動かされるだけで怒り狂います。

下女が逃げ出すのもやむなしといったところでしょう。

 

大名だろうが塩対応 文人と揉め版元も困る

馬琴は気難しい性格です。

ファンサービスを求めてくるのがたとえ大名だろうと、すげなく断ることすらあり、文人や版元とも当然ながらよく揉めました。

師匠である山東京伝を暴露するような本を出し、あることないこと書いたこともあります。

温厚な京伝本人はそれをあしらうものの、弟の山東京山は「この恩知らずが!」と激怒。

馬琴は、日頃のストレスを辛口の批評やゴシップ暴露に費やす悪癖があり、それを京山は許せませんでした。

京山は如才ない男です。

トラブルメーカーの長男とは縁を切り、娘に婿を持たせる。

大名家から「ファンです、うちに来てお話ししませんか?」と言われようが、怒涛の塩対応をする馬琴とは異なり、そつなく付き合うことができた。

妻の履物屋を畳んだ馬琴とは異なり、父と兄の商売もきっちりこなす。

いわば頭のキレる陽キャですから、馬琴とは気が合うわけもありません。

この京山とのトラブルは、周囲にまで悪影響を与えています。

越後の鈴木牧之は、豪雪について描いた随筆出版をめざしており、馬琴と親しく文通していました。

しかし馬琴は業務多忙となり、牧之とは疎遠となります。

そこで彼は京山を頼りにし、それが『北越雪譜』として結実しました。

すると馬琴がこれに怒り、鈴木牧之との仲が一時断絶してしまったのです。

まったくもってややこしい性格をしている――そんな馬琴の家に、短いながらも居候した絵師がいます。

あの葛飾北斎です。

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馬琴作品の中に入る挿絵を頻繁に描いていた北斎については、打ち合わせの都合もあったのか、北斎が転がり込み、それを馬琴が許すという不思議な状況が生じたことがあったのです。

ただし、この“変人コンビ”は解消されてしまいます。

馬琴がある程度レイアウト指定や構想を語っても、北斎がそれを破って自己流を通して揉めたとか、ギャラ高騰が理由であるとか、諸説あります。

コンビ解消後は一切交際がなかったとも、あるいは付き合いそのものは続いたとも……。

映画『八犬伝』は後者を採用し、馬琴の家に出入りする北斎が、馬琴の執筆を見守る重要な役目を果たします。

『椿説弓張月』葛飾北斎の挿絵/国立国会図書館蔵

馬琴自身は、戯作者としてだけではなく、学者としても名を為したい思いがあったとされます。

特に、儒教と国学に深く傾倒しており、もう少し後年に生まれていたら幕末明治の動乱に身を投じていたかもしれません。

そんな馬琴と交友した人物として知られるのが渡辺崋山です。

宗伯の写実的な肖像画『滝沢琴嶺像』も彼が手掛けました。

しかし華山が【蛮社の獄】で囚われの身となると、馬琴は助命嘆願に対して冷淡な態度で周囲を失望させました。

保守的な馬琴は、華山のように先進性のある思想には共鳴していないだけでなく、とにかく頑固であり、ルール違反に不寛容なこともありました。

幕府に背いたのであれば、獄死やむなしと考えてもおかしくはないでしょう。

渡辺崋山作『滝沢琴嶺像』/wikipediaより引用

儒教思想を守る馬琴は、女性に対しても潔癖かつ差別的であってもおかしくありません。

彼自身も宗伯も、女遊びとは無縁。

潔癖であることはよいにせよ、遊郭を舞台とするような洒落た作品は描きようがありません。

工藤平助の娘である只野真葛との文通を介した交流も、彼女の先進的な思想や儒教批判に反発し、一年ほどで終わっています。

しかし、そんな馬琴の創作活動と、なによりも『南総里見八犬伝』完結は、ある一人の女性なくしてはできなかったことは歴史の奇跡ともいえるかもしれません。

それが宗伯の妻である路でした。詳細は後述します。

ともかく作家として大人気となった馬琴。

大名やその夫人たちまで読み漁り、ファンとして推し、彼の作品を題材とした錦絵はじめとするメディアミックスは大盛況となります。

それなのに馬琴は、己の利益にもならない毒舌評論を書き連ねる――生来のトラブルメーカーといえました。

版元にしても、何度も何度もしつこく校正を入れる完璧主義者の馬琴に対して、嫌気がさしているほど。

売れっ子だから仕事を頼まざるを得ない。蔦屋重三郎のみならず、鶴屋喜右衛門ら有力版元も馬琴は重視していました。しかし、一方では面倒くさいとも思われている、そんな作家です。

なお馬琴は、日本史において版元に原稿料を請求した最初期の一人とされています。

 

馬琴vs京山~国芳と猫を巻き込んで対立

生来の性格からとにかくトラブルの多い曲亭馬琴。

特に京山を相手にした対立は、鈴木牧之まで巻き込み、周囲の者たちにとっては傍迷惑でした。

この争いには人間だけでなく、猫まで巻き込まれてゆきます。

京山は、猫が好きで、同じく猫を愛する絵師・歌川国芳と意気投合しておりました。

歌川国芳

猫と後ろ姿が特徴の『歌川国芳の自画像』/wikipediaより引用

二人はタッグを組み、『朧月猫草紙』はじめ猫作品を世に送り出しております。

この作品はおこまという猫が着物を着て、恋をして、イケメンにゃんこと駆け落ちして、大冒険するという可愛らしい作品です。

このような猫もを人にみたてたジャンルは人気がありました。

にゃんにゃん鳴きながら、猫が恋をして、嫁入りをするさまを描く。そんな少女漫画のような甘ったるい世界を展開します。

しかし、馬琴からすれば「くだらない!」「つまらんもので金儲けを狙うしょうもない奴だ!」となり、京山をさんざん罵倒しております。

挿絵の国芳についても同じく罵倒していました。

「国芳は才能がない! 錦絵以外は大きく落ちる。猫絵なんぞ描きおって!」

国芳が当時の江戸で人気絶頂にあったことを思えば、馬琴は一体何なのか?と思ってしまいます。

国芳は面倒見がよく、大勢の弟子を持ち、人気がありました。

そういう“陽キャ”ぶりも、江戸後期文壇の“陰キャ王”からすれば鼻持ちならなかったのかもしれません。

では、馬琴と国芳は没交渉だったのか?

というと、そうでもないのがまた不可解です。

歌川国芳一門は『南総里見八犬伝』はじめ、馬琴を題材とした名作錦絵を多数発表しています。

馬琴の父は、大きな犬を飼い可愛がっており、猫は嫌いだったとか。

そんな父の代から犬派だからこその『南総里見八犬伝』なのかもしれません。

前述の通り、中国の伝説を用いたから犬が活躍するということも考えられますが、とにかく『南総里見八犬伝』は猫派には厳しい作品でした。

序盤から猫が犬に噛み殺される場面がある。

最後に登場する八犬士・犬村大角は父が化け猫と入れ替わってしまいました。この化け猫討伐を経て、大角は一行に加わり、八犬士が勢揃いします。

化け猫伝説は江戸時代にはすっかりお馴染みの演出とはいえ、犬を司る勇士が猫を倒して揃うのですから、どうにも猫派には冷たい作品に思えなくもありません。

国芳も大角を描く錦絵には、化け猫を殺す場面を描いています。

愛猫家としては辛いのか、仕事と割り切っていたのか、心中は察するほかありませんが。

歌川国芳『曲亭翁精著八犬士随一・犬村大角』/wikipediaより引用

こうなると馬琴は猫派の宿敵のように思えますが、それほど単純な話でもありません。

『南総里見八犬伝』がフィナーレを迎えた天保年間、ますます厳しくなった幕府の出版規制をかいくぐるため、クリエイターたちは猫に頼りました。

歌川国芳は浮世絵に新ジャンル、いわば江戸の猫ミームをもたらしました。

それまで背景にいたり、美人が抱いていた猫を前面に押し出したのです。さらに役者絵や風俗画の人を猫にして描くことで、規制の目をすり抜けたのです。

こうなると、江戸っ子の猫への愛はますます盛り上がります。

馬琴もちゃっかり、過去に出版した猫本『猫児牝忠義合奏』の挿絵を国芳に頼み、再出版したのです。

そんな猫にあふれた江戸に住む馬琴も、実はその誘惑からは逃げ切れておりませんでした。

日記には猫を飼い、名付け、かわいがり、さらには子猫を譲渡する活動が記録されております。

要は、馬琴は隠れ猫派だったのですね。

子猫を譲る時は首輪に鰹節というフードまでつけ、譲渡後も様子を確認していたほどですから、猫保護活動の先人とも言える。

馬琴が嫌いなのはあくまで人間であり、愛猫家の京山までということにしましょう。

 

家存続のために苦労を重ね

馬琴は甘いもの好きで、歯が全部なくなった時は「これで痛くない」とせいせいしていたとか。

しかし、目はそうはいきません。天保4年(1833年)、馬琴は右目がかすみ、ついには左目までも視力が低下。

その2年後の天保6年(1835年)、病弱であった息子の宗伯が父に先立ってしまいます。

馬琴は武士としての滝沢家再興という悲願を、宗伯の遺児・太郎に託すことにしましたが、そのためには御家人株を買わねばならず、意に沿わぬ営業金策活動をする羽目に陥ります。

要は金策であり、その手段の一つに馬琴が苦手とする【書画会】もありました。

江戸のクラウドファウンディングともいえるイベントで、料亭に知人、友人、資産家を集め、そこで様々なグッズ販売を行うのです。

例えば、扇子に風呂敷、盃、掛け軸といったもので、そこにサインをしてファンに買ってもらう。

馬琴ほどのネームバリューがあれば、人は集まり、収入も見込める――されど、彼の性格とプライドからすれば心中は複雑でした。

こうしたイベントを開けば、かつて馬琴がコキを下ろしてきた文人や絵師も足を運び、気まずいものがある。

案の定、この知らせを聞いて京山は「ざまあみろ!」と馬鹿にしたとか。

プライドの高い馬琴にとって、金のために頭を下げるなぞ、屈辱そのもの。

それでも孫と滝沢家存続のためにはやるしかありません。

天保10年(1839年)、ついに馬琴は視力を失いました。

彼以外にも江戸時代のクリエイターは、視力を失う人がしばしばおります。

現代ならば目薬や手術で治療できる眼病も、当時はそうではなかったのでしょう。

目を酷使する者にとって業ともいえるものでした。

 

馬琴が語り、路が筆を執り、傑作が完結する

視力を失った馬琴にとって最大の試練となったのが、まだやり終えていない大仕事。

ライフワークである『南総里見八犬伝』を完結させることです。

亡き宗伯の妻である路は、夫を失ってからも実家に戻らず、馬琴の秘書のような役割を果たしていました。

この辛抱強い路が、馬琴の口述筆記をすることとなります。

馬琴とその家庭環境に耐え切れる人物となれば彼女くらいしかいません。

路が、馬琴の弟子「琴童」として口述筆記をすることで、この大作の執筆活動は続けられました。

路はそれなりの武士の娘であり、女性としては高い教育を受けた部類に入ります。

とはいえ、当時は男女の教育カリキュラムが、日本史上もっとも異なる時代です。

かな文字を用い、女性としての教養を身につけてきた路。そんな彼女相手に、馬琴は辛抱強く、男性向けの教養を教えていくしかないのです。

馬琴は、ちょっとしたミスも許せない性格であり、目が見える頃から執拗なまでの校正を繰り返して版元を苦しめてきました。

例えば、引用した故事やことわざが正しいのか――そこでも馬琴はきちんとした正解を求め、それを路に伝えて確認させねばなりません。

結果、たった数行を進めるだけでも、おそるべき苦難となりました。

延々と、いつ終わるともわからないほど、続けられる苦しい作業を二人は諦めず、ひたすら続けてゆく。

そして妻の百が没した天保12年(1841年)、ついに『南総里見八犬伝』は完成。

翌天保13年(1842年)に最終巻が刊行されます。

そのあとがき「回外剰筆」の中で、馬琴は己の失明を明かしました。

そして、本来は縫い物や煮炊きのために使う腕で、筆を持ち、この大長編を書き記した路への感謝もそこに続いたのでした。

馬琴の執筆活動は、その後も路の口述筆記により続けられます。

しかし『傾城水滸伝』や『近世説美少年録』はついに未完結のまま――それを思うと『南総里見八犬伝』の完結はやはり奇跡的なことに思えます。

嘉永元年(1848年)11月6日、馬琴は没しました。

享年82。

この翌嘉永2年(1849年)、葛飾北斎が90で大往生を遂げました。

葛飾北斎82才の頃の自画像/Wikipediaより引用

馬琴が滝沢家を託した嫡孫・太郎は、父に似て病弱でした。

路が懸命な看病をするも、この歳に彼も夭折し、滝沢家は断絶するのでした。

 

馬琴の筆、天保生まれの魔星を育てる

路は夫、義父、長男の死後も生き続け、安政5年(1858年)にその生涯を終えます。

享年52。

明治維新に先立つこと10年、日本は欧米列強国と通商条約を立て続けに結んでいました。

この激動の時代、『南総里見八犬伝』が完結した天保年間に生まれた者たちが青年期を迎え、彼らはときに思想を、ときに剣をかかげ、国を変えると立ち上がります。

江戸時代が始まって以来、幕府は儒教朱子学をかかげ、それを浸透させることに腐心してきました。

初代の徳川家康は、若き儒学者である林羅山を重用。

林羅山/wikipediaより引用

5代・徳川綱吉は【生類憐れみの令】を徹底し、戦国の気風を消し去ろうと尽力します。

8代・徳川吉宗は、明代の政策を参照にしつつ、各地に寺子屋を作らせました。親孝行を実施したものを顕彰し、庶民にまで儒教倫理を教え込もうとします。

武士が学ぶ教育機関として、各地の藩校、そして江戸の昌平坂学問所が作られ、教育向上がはかられます。

こうして徐々に浸透していった日本人の教育。

江戸時代後期にあらわれた曲亭馬琴は、そんな江戸の啓蒙の総仕上げを成し遂げた一人かもしれません。

彼より少し前にあたる恋川春町や大田南畝あたりから、武士出身の文人が漢籍教養を取り込んだ作品を世に送り出しました。

馬琴は、そんな彼らをしのぐインプット量があり、さらには極め付けの堅物です。

漫画や映像になるとわかりにくく、抄訳でもカットされますが、馬琴の作品はお説教がともかく長い。くどい。

人気作家になると彼の思想が炸裂し、どんどんこれが深化してゆきます。

馬琴は、ただおもしろい作品を送り出すだけの作家ではありません。

作品を手に取る者が儒教倫理を身につけるようになって欲しい――エンタメを通じて、そんな啓蒙を大真面目に考えていたのです。

「長ぇ、また説教が始まったよ」

読者はそうぼやいたかもしれませんが、先は気になる。結果、読んでしまう。

そうして物語へのめり込んでいくうちに馬琴の術中にはまり、熱血と儒教倫理に開眼しても不思議はないかもしれません。

なにせ八犬士の玉に浮かび上がる文字はこう。

仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌――嫌でも儒教倫理を覚えてしまうことでしょう。

そんな馬琴の最高傑作『南総里見八犬伝』は、日本版『水滸伝』として構想を練られたものでした。

果たして馬琴は知っていたのか――中国ではこんなことわざがあります。

「若者に『水滸伝』を読ませるな」

血の気が滾り、暴力的な世直しを始めてしまうから、そんな危険な本は遠ざけろという意味です。

幕末にたちあがった志士たちは、目的は違えど、やたらと熱血で、儒教倫理は身につけていたものでした。

馬琴がそんな未来を考えていたとはむろん思えませんが、彼の蒔いた種がかれらの血の中で芽吹いた感はあります。

慶応4年(1868年)、最後の将軍たる徳川慶喜が江戸へ逃げ戻ると、江戸っ子たちは大いに失望します。

徳川慶喜/wikipediaより引用

腰抜け将軍はもはや守る価値がなくとも、彼らには「義」があり、それを掲げる彰義隊の姿を、江戸っ子たちは心をこめて見送りました。

彼らの敗北後も、江戸っ子の誇りは「父や祖父が彰義隊に参加したこと」であり続けました。

上野で死闘を繰り広げる彰義隊士の姿は、かの歌川国芳の弟子である月岡芳年が錦絵に残します。

師匠と同輩と共に、八犬士を描いていた天保生まれの青年絵師です。

そんな彼は、いかなる運命の巡りあわせか、本物の血飛沫と勇士を描くこととなったのでした。

 

何度でも蘇る傑作『南総里見八犬伝』

曲亭馬琴が没してから約20年後、明治維新が訪れました。

西洋の文学を学ぶべきだとされる時代、日本文学は古臭いものとして批判の対象とされます。

特に、大ヒット作だった『南総里見八犬伝』はその対象としてわかりやすく、時代遅れの代表格とされました。

勧善懲悪だなんだと説教くせーなー。荒唐無稽だわ! と言われてしまったのです。

これは日本のみならず、中国でも直面した悲劇といえました。

日本に留学し、文学で祖国を変えることにめざめた魯迅は、苦々しく伝統文学の欠点を指摘しています。

三国志演義』の諸葛亮は、超人的すぎて不気味だ。劉備や『水滸伝』の宋江みたいなボンクラリーダーを崇めているから、我が国は駄目になったのではないかと。

作品としての出来だけでなく、根底にある儒教倫理もふくめ、批判対象とされたのです。

それは子が親の欠点を指摘するような、愛がある故の苦さのあるものでした。

とはいえ、庶民はこうした伝統的な娯楽を捨てることはできません。

中国では伝統を否定する【文化大革命】という大打撃まであったのに、伝統的なエンタメは何度でも甦り、今もドラマやゲームとなって親しまれています。

日本でも『南総里見八犬伝』は消えてしまったのか?というと、しぶとく生き残っています。

それはなぜか?

とびきり格好のいい勇者がチームを結成し、悪と対峙する――そんな「勧善懲悪」フォーマットは、使い勝手がよいのです。

押川春浪の小説に、立川文庫、少年漫画……。

このフォーマットを使った作品は、数え切れぬほど世に送り出され、途切れたことはなく、その元祖の一つとして『南総里見八犬伝』は今でも生きています。

2024年公開の映画『八犬伝』は、そんな偉大なる作品製作秘話であるとともに、今日にまで通じる要素を思い出させてきます。

原作者の山田風太郎は、馬琴と同じく『水滸伝』の自己流日本版を描くことにしました。それが「忍法帖」シリーズです。

これまた日本フィクションの定番である異能力者同士が戦うフォーマット起源のひとつには、この「忍法帖」があります。

山田は歴史小説や時代小説というより「伝奇作家」に分類される。

日本の伝奇小説とは、江戸中期以降、中国白話小説の影響を受けてできたジャンルとされ、山田にとって馬琴は偉大なる先輩。

『八犬伝』という作品を通して描かれる作劇術は、馬琴のものでもあり、山田のものであるとも言えるでしょう。

永遠に色褪せない作品となっている『南総里見八犬伝』。

馬琴の説教くささという欠点が色濃く出ているだけでなく、荒唐無稽でやたらと人が死ぬ――それでも物語のフォーマット、描き方の斬新さゆえに古びません。

時代にあわせて適宜変えてゆけば何度でも作りかえせるのです。

『南総里見八犬伝』が近年にとりあげられた作品として、2023年朝の連続テレビ小説『らんまん』があります。

このドラマでは、主人公である万太郎の妻・寿恵子が『南総里見八犬伝』の大ファンでした。

舞台となる明治時代前期ならば十分ありえることで、馬琴には女性ファンも多かった。

それだけでなく、これには深い意味があったと思えます。

万太郎のモデルとなった牧野富太郎の妻・寿衛子は『南総里見八犬伝』のファンであったわけではありません。

突拍子もない夫に苦労させられる彼女は、内助の功を発揮する苦労人とされてきました。

それがドラマでは、夫妻がともに手を繋ぎ、植物図鑑を作り出していったと描かれています。夫を馬琴に例え、共に冒険に出ると寿恵子は語ります。

この夫妻は、馬琴と路の姿を反映しているようにも思えます。

路も、従来は義父に従う素晴らしい嫁とされてきました。

しかし、山田風太郎『八犬伝』では、彼女は作品を生み出す創作の喜びをおぼえ、すすんで馬琴を励ましていたという描き方をされています。

支えるだけではない、ともに歩み作品を生み出す女性の姿という点で、彼女たちの描き方には共通するものがあるのです。

牧野富太郎
らんまん主人公モデル・牧野富太郎はカネに無頓着な「植物バカ一代」だった

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儒教倫理に縛られたがゆえに、馬琴は男尊女卑から抜け出せないように思えます。

それが彼とともに歩んだ路ゆえに、女性をも照らす光となりました。

これが2020年代の『南総里見八犬伝』なのでしょう。

そして、これから先も何度でも、この傑作は姿を変えて人々の胸を熱くし続けることでしょう。

この作品を残した曲亭馬琴は、時代を超えた傑物といえるのではないでしょうか。

『べらぼう』では、海外でも人気声優として知られる津田健次郎さんが演じています。

彼自身も八犬士を演じたことがあります。そしてここまで述べてきた通り『八犬伝』は漫画やアニメに大きな影響を与えたコンテンツです。

津田さんが演じることにより、海外も含めたアニメファンも曲亭馬琴に注目するはず。

曲亭馬琴が切り拓いてきた世界が循環し、さらに広がる。

津田健次郎さんが曲亭馬琴を演じることは驚異的であり、かつ必然でもあったと思えるのです。

ドラマは残り僅かとなりましたが、最後までその活躍を楽しんでまいりましょう。

🏯 江戸時代|徳川幕府の政治・文化・社会を総合的に解説

📘 『べらぼう』総合ガイド|登場人物・史実・浮世絵を網羅

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小檜山青

東洋史専攻。歴史系のドラマ、映画は昔から好きで鑑賞本数が多い方と自認。最近は華流ドラマが気になっており、武侠ものが特に好き。 コーエーテクモゲース『信長の野望 大志』カレンダー、『三国志14』アートブック、2024年度版『中国時代劇で学ぶ中国の歴史』(キネマ旬報社)『覆流年』紹介記事執筆等。

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