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【曲亭馬琴】
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結婚により身を固める
寛政5年(1793年)、そんな曲亭馬琴のもとへ、山東京伝や蔦屋重三郎から縁談が持ち込まれました。
彼らとしても、馬琴という暴れ馬に縄をつけたかったのかもしれません。
縁談相手は履物屋・伊勢屋の“百”で馬琴より3歳上――27歳の夫と30歳の妻でした。
百は、初婚でもなく美貌でもなく、眇(すがめ・斜視のこと)で性格は難あり。
負けん気が強く、馬琴の教養についていけず、全く話があわず、しかもそのことに苛立ち周囲に当たり散らしたのです。
馬琴も、そんな妻に歩み寄る気持ちはさらさらありません。
彼にとっては商人をやめ、武士として滝沢清右衛門と名乗れることが重要でした。
婿入りしておきながら、馬琴は嫁ぎ先の商売を嫌いました。人に踏まれる履物を扱うなぞ、下劣だと見下したのです。
実際、寛政7年(1795年)に義母が亡くなると、履物商をキッパリとやめ、手習師匠となりました。
この結婚は打算ありきで、愛情は一切なかったと思われます。
百は悪妻と評されますが、馬琴も気の利かぬ夫であり、打算での縁談である以上、彼女だけが悪いわけでもないでしょう。
ともあれ馬琴はこの結婚により身を固め、主家を出奔した以来の長い放浪人生に終わりを告げ、夫妻は一男三女に恵まれました。
長女・幸(さき):寛政6年(1794年)生まれ
二女・佑(ゆう):寛政8年(1796年)生まれ
長男・鎮五郎:寛政9年(1898年)生まれ
三女・鍬(くわ):寛政12年(1800年)生まれ
履物屋をやめたあと、一時期は手習の師匠であった馬琴。
しかし、筆一本の作家稼業で喰っていけるようになると、手習もやめてしまいました。
読本作家として全盛期に突入
寛政8年(1796年)に而立(じりつ・30才)を迎えた馬琴は作家としての全盛期に突入。
元々の才能に加えて、培ってきた知識も豊富にあり、【黄表紙】や【草双紙】といった当世流行の作品をそつなくこなしていくうちに得意のジャンルを見出します。
文化元年(1804年)、『月氷奇縁』から始まる【読本】です。
この【読本】は、まさにこの時代らしい流行――中国の【白話小説】の影響を受けて描かれた、長編伝奇小説ともいえるジャンルです。
日本では古来より、漢籍を受容してきました。
日本ならではの読解法である【書き下し】は、唐代あたりまでの中国語文法に適しており、それ以降は読解が難しくなります。
文語体で書かれた漢籍は読みこなせても、口語を取り入れたジャンルとなるもどうにも読解が厳しい。
なんせ【白話小説】とは、文語体ではなく口語体(=白話)で書かれた小説のことでした。
本場からすれば読みやすく親しいジャンルですが、日本人にとっては難解になってしまう。
このため同じ明代に成立した小説でも、日本での受容時期は異なったりします。
例えば文語体である『三国志演義』は解読しやすく、各地で藩校が作られると教科書として採用されました。
一方で『水滸伝』などは【白話】を駆使するため、読解をするのにタイムラグが生じる。
読みこなして翻訳が広がり、定着してゆくのは、江戸時代も折り返し地点を過ぎてからでした。
なお、江戸後期は、明代がブームになります。
明の後に成立した清は満洲族の王朝であり、何か違和感が生じるし、時代を遡って唐代では読み手も慣れきっていてもう古い。
しかし、明代ならば新しくて何か洒落ている――として新しいトレンドに乗りたい人びとは、明代風を取り込んでゆくのです。
例えば書道などもそうです。
江戸時代の公式字体ともいえる書体は【青蓮院流】、または【御家流】の名前で知られます。
【和様】、すなわち日本式書道の頂点とされ、武士から寺子屋まで、なるべくこの字体に近づけることが修練でした。
しかし、もっとオルタナティブな達筆をめざしたいものたちは【唐様】(からよう)を手本とします。
主流とは異なる字体で、反抗心や流行を追うスタイルを示すのです。
この【唐様】の代表格は、明代の文徴明や董其昌とされます。
江戸時代後期や幕末には「あの人は文徴明のような字だ」ということがよく言われましたが、それはただ達筆を褒められるだけでなく、センスも良いという意味になりました。
明代のファッションアイテムとしては【大明頭巾】があります。
紫縮緬の防寒用で、はじめは男女双方、のちに女性のものとされました。
別名は【御高祖頭巾】――この名前は明の初代皇帝・朱元璋が被った頭巾に似ているからとされます。
しかし、朱元璋は「太祖」であるし、頭巾も紫色ではありません。女性専用というのも奇妙な話です。ファッションであるため、そのあたりが曖昧に伝わったのでしょう。
馬琴は、長男の嫁を決める際、関帝籤、つまり関羽のお告げであるおみくじを引いています。
これ、妙な話だとは思いませんか?
今現在、関羽のおみくじを引くとすれば、道教の施設である関帝廟に向かうしかありません。
では馬琴は関帝廟に向かったのか?
というとそんなことはなく、普通、おみくじは寺社仏閣で引くものです。
つまり、この時代に関帝という神様を知った日本人は「関帝の言葉を使っておみくじを作れば、人気が出ること間違いなし!」と考え、寺社仏閣でも広まったのです。
なにせ関羽は日本でも大人気です。
ありがたいお告げがおみくじになったとなれば、こぞって引くこと間違いなし。道教神であり、日本由来でないことなど、この際どうでもよいのです。
これは漁業や航海を司る道教の女神・媽祖(まそ)にもあてはまります。ありがたい女神として、素朴に媽祖を讃えている日本人はおりました。
明治時代になり、神道のこうした状態を整理し、神社での関帝籤は廃止されております。
馬琴は、こうした江戸の最先端であった「唐様」「明代」ブームをより深く取り入れた作家でした。
語学力に長けているため明代の【白話小説】も読解できる。
名場面をアレンジし、自作に取り込む――そんな作風が読者の心を掴むのです。
しかも彼には他の武器もありました。
商業を重視した田沼意次時代は、世間一般でも軽妙洒脱な気風が流行し、馬琴の師である山東京伝が人気作品を立て続けにヒットさせました。
こうした、チャラい気風を引き締めることが、ポスト田沼時代の流れです。
松平定信の厳格な取締に対し、山東京伝や蔦屋重三郎たちはすっかり参ってしまい、たしかに馬琴も、弾圧を受ける創作側にいました。
しかし、彼には彼なりの個性と気質があり、武士であることを誇りとしていたため、お堅い作風となります。
軽妙洒脱よりも質実剛健は、このころ変化した時代の流れに一致。
師匠の山東京伝が伸び悩む一方で、馬琴の作品は次々に売れていったのは、時代の流れも影響したのでしょう。
馬琴は文化4年(1804年)、源為朝が大暴れする傑作『椿説弓張月』を発表。
さらに10年後の文化11年(1814年)には『南総里見八犬伝』の刊行を始めます。
そしてその2年後の文化13年(1816年)、恩人であり、師であった山東京伝が没しました。
時代の移り変わりを象徴する出来事と言えるでしょう。
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