2016年に公開された映画『殿、利息でござる!』をご存知でしょうか?
磯田道史氏の著書『無私の日本人』を原作として、阿部サダヲさん主演で映画化。
キャッチコピーは「ゼニと頭は、使いよう。」であり、タイトルの「殿」役には仙台市出身のフィギュアスケーター羽生結弦さんが抜擢されたことでも話題になりました。
この見栄えからして、いかにも楽しげな映画となっていますが、個人的にはどうしても引っかかる点がありました。
「殿」というのが伊達家七代当主・重村だったからです。
劇中では、羽生結弦さんが颯爽とした姿で現れはしますが、この「殿」の経済政策のせいで多くの民が苦しんでおり、そんな彼を称えるのはいかがなものか……という違和感があったのです。
2025年大河ドラマ『べらぼう』を見ていくと、さらにその印象は強まるかもしれません。
なぜなら伊達重村は、田沼意次を相手に猟官運動を行った大名の代表格といえるのです。
己のプライドを満たすため、領民を苦しめてまで贈収賄に挑む――あの大名は一体なんなんだ?
主人公の蔦屋重三郎目線にしてみれば「馬鹿くせぇ田舎もんの殿様だな!」とでも、まとめられてしまいそうな。
伊達重村とは、ただの困った殿様だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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6代藩主・宗村の側室に生まれた二男
寛保2年(1742年)、6代藩主・伊達宗村に二男が生まれ、儀八郎と名付けられました。
母は側室であり、坂信之の娘。
延享2年(1745年)に長兄・久米之丞が没したことにより、儀八郎は世継ぎとされます。
伊達家では、5代目の藩主・伊達吉村が明君として知られていました。
吉村が隠居を願うと、あの吉宗が「明君として諸大名の鑑なのだから、しばし待て」と惜しんだとされるほど。
妻の冬姫も賢夫人として名高く、仙台の薫風は広く知られることとなったのです。
吉村の治世では藩の財政は健全であり、宗村への相続時も黒字でした。
しかし不運が重なり、財政は悪化してゆきます。
例えば宗村の正室は、8代将軍吉宗の養女である利根姫です。
将軍の姫となれば田舎のやり方で遇するわけにもいかず、仙台藩に大奥風の豪奢な気風が持ち込まれました。
将軍の姫君降嫁は大名にとってステータスシンボルであると同時に財政負担莫大という欠点があったのです。
江戸時代も後半に向かうにつれ、この困った現象が幕府も大名も苦しめることになり、仙台藩はその先行事例と言えました。
父の宗村が39歳で夭折
宝暦6年(1756年)、宗村が39歳の若さで没してしまいます。
宗村の寿命を縮めたのは、あまりに厳しい政治情勢ではないかと、当時から囁かれるほど、宝暦年間は悪夢の連続でした。
仙台藩は宝暦元年(1751年)に幕府から日光東照宮修繕を命じられ、莫大な金がかかり、その2年後の宝暦3年(1753年)には大洪水が発生。
そして宝暦5年(1755年)にはまたしても洪水、さらに不作が襲いかかります。
仙台藩の領民は飢饉に苦しみました。
宗村も病床に臥せっていました。
そんな殿を気遣うあまりか、奉行はこの惨状を報告しません。
やがてこれを知った宗村は激怒しました。
宗村は無理にでも一万両を捻出し、民衆救済にあてるよう指示を出しました。そして奉行たちの不甲斐なさを叱りつけたのです。
この怒りが宗村の寿命を縮めたとされています。
それほど怒りが激しかったのでしょう。飢饉に苦しむ民を憂いながら、宗村は亡くなりました。
若き重村、苦難の中で家を継ぐ
父が亡くなり、わずか15歳で大大名家を背負うことになった伊達重村。
その若さゆえに、叔父である陸奥一関藩主・田村村隆が後見としてつけられました。
この叔父は明君と名高い吉村の五男です。
藩主就任のタイミングとしては最悪でした。
飢饉はまだおさまらない。奉行の人事も揉めている。
多難な始まりにも関わらず、重村はあまり政治に関心を持たなかったとされますが、まだ二十歳にもならぬ殿ともなれば致し方ないことでしょう。
これは彼一人の問題でもありませんでした。江戸時代も半ばを過ぎると、将軍や殿ではなく、閣僚たちが政治を主導する傾向が強まっていたのです。
いずれにせよ重村の治世が、当初から多くの困難に直面していたことは事実。
明君だった5代・吉村の代に堅調だった藩の財政も、6代・宗村の頃にはすっかり蓄えも底を尽きています。
宗村が怒りを露わにした奉行たちのやる気のなさも問題であり、重村の治世では派閥争いも続発していました。
藩主の質だけが問題ではない、仙台藩の宿命といえました。
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