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【伊達重村】
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幕閣、重村から「手入」される
明和2年(1765年)、伊達重村の名が幕閣で浮上します。
仙台藩家老に、なんとしても少将から中将に昇進したい、として幕府に「手入」するよう依頼したのです。
時代劇風にいえば「よきにはからえ」というところであり、藩医で才気あふれる工藤平助が探りを入れると、老中・松平武元から好感触を得ることができました。
さらには、御用取次である田沼意次にも根回しを行います。

田沼意次/wikipediaより引用
当時の田沼意次はまだ御用取次であり、老中になるのはまだ先のこと。それでも彼が大大名の「手入」を受けるあたりに、田沼意次の政治ポテンシャルがみえます。
この明和2年の「手入」の相手は、以下の通りです。
ここで最も重村と縁が深いのは、冨永愛さんが演じる高岳です。
重村はせっせと高岳に書状を送ります。上様に贈る馬はどんなものがよいのか。幕府から依頼された工事をうまくやる自信がないなどなど。
これに対する高岳の返事はまるで面倒見のいい教師のよう。
「あなたの世話がよかったのか、上様は馬を喜んでいましたよ」
「工事を失敗した大名なぞおりませぬ! きっとうまくいきますよ」
なんとも親身ではないですか。仙台藩祖・政宗と母の義姫の関係を思い出します。
しまいには重村は、なんと江戸城を出たすぐの場所、桜田御用屋敷内に高岡の屋敷を作ってしまったのでした。
一体何事なのか? どういう関係なのか?
実のところ、重村は高岳に頼り、甘える理由はありました。
重村の養母は利根姫といいます。彼女は紀伊徳川家当主・徳川宗直の娘にあたり、8代将軍・吉宗の養女となり、伊達宗村の正室となりました。
このとき、利根姫の侍女として“ゆう”がつけられます。この“ゆう”は主人の死後大奥へ戻り、“三室”と名乗りました。彼女は聡明なのか順調に出世を重ね、“高岳”と名を変え、筆頭老女として大奥の頂点に君臨したのでした。
重村からすれば、養母の周辺にいた叔母さんのようなもの。そんな女性が大奥の頂点にいることは、実にありがたいことなのです。
冨永愛さん扮する高岳が、重村を心配し励ます様子を、心の中で思い浮かべるのもまた一興ですね。
重村本人が顔を見せずとも、彼の影は『べらぼう』序盤から見え隠れします。平賀源内は田沼意次に対し、仙台藩の経済政策を話しておりました。
こうした「手入」に関与した工藤平助は、【田沼時代】に重要な役割を果たす【蝦夷地政策】の立案に深く関わっています。
重村本人は出番がなくとも、仙台藩は【田沼時代】の象徴として、大きな役割を果たすことでしょう。
さて、この明和2年(1765年)、伊達重村による「手入」は失敗しました。
しかし明和4年(1767年)には、念願の中将昇進が叶います。
この後も重村は、大名にとってステータスシンボルとなる家治直筆の絵や、着用した装束を得るために、まだ贈賄を続けるのでした。
相手は田沼意次や高岳となります。
明君の孫であるだけに、江戸の民も「堕落しちまったモンだ」と鼻白んだことでしょう。
重村にも改革の志はあった
こうして振り返ってみると、伊達重村は暗君以外の何者でもないように見えるかもしれません。
重村の時代、仙台藩ではしばしば政変が起き、藩内の閣僚たちが派閥構想を断行します。
慢性的に領民を苦しめ続ける飢饉に無策でありながら、政争を続けるとはどういうことなのか……。
政に関心が薄いとされる重村としても、ただ漫然と事態を眺めていただけともいえません。
彼なりに旧態依然とした政治体制ではうまくいかないのではないかという焦りはありました。
【田沼時代】には各地で改革を志す大名や重臣が出現します。この時代、気候変動や経済危機にみまわれ、変わらねばならないという思いを強める者は多かったのです。
その改革は時に迷惑も生じさせております。
仙台藩で鉄銭を鋳造した結果、隣の藩でこの「悪銭」と「良銭」(銅貨)を両替して儲けようとする不届者があとをたたず、仙台藩周辺が大迷惑を被りました。
そのためこの政策は短期間で頓挫しています。
成功した改革としては、藩校養賢堂拡充があります。
まずは人材育成から政治を立て直すという取り組みは意義深いもので。
重村の代には工藤平助という俊英もいます。彼は『べらぼう』でも存在感を見せることでしょう。
重村に対する評価の厳しさには、明治以降の歴史も関係しています。
そのころの薩摩藩主は島津重豪でした。彼も金の使い方が激しく、藩の上層部にとっては頭痛の種だった。
しかし幕末の名君とされる島津斉彬が重豪をロールモデルにしているとされ、薩摩藩が【明治維新】の勝者となると、斉彬から重豪にまでさかのぼり評価されるようになったのです。

島津斉彬/wikipediaより引用
仙台藩は、会津藩と並び【明治維新】の敗者筆頭であり、評価されることはありません。
大藩である仙台藩は、周辺の藩から傲慢だととらえられることもありました。
その風潮は北海道開拓にまで引き継がれ、屯田兵由来の道民でも「仙台藩の連中とはつきあってはならね!」と苦々しく語る人が昔はいたとか。
しかし、重村にもきちんと評価したいところはあります。
仙台には素晴らしい女性がいる!
伊達重村には人材育成の志がありました。
それも男性だけでなく、女性にも発揮されています。
仙台藩の明君である5代吉村は、妻である冬姫も賢い女性であり、夫妻でよき治世を築き上げたと評されました。
ところが6代吉村の時代に、これが崩れます。
8代将軍・吉宗の養女である利根姫を迎えたからです。

利根姫/wikipediaより引用
前述の通り、将軍の姫君ともなれば仙台藩でもそれに応じたものとなり、正室の暮らしぶりは江戸大奥様式に置き換えられ、華美なものとなってゆきました。
重村は、これを吉村・冬姫時代の質素なものへ戻すことにしたのです。
彼の正室である惇姫は、華美な暮らしぶりではなく、その心の美しさが残された女性。
貧民救恤のために千両を捻出し、米や粥を配り、三千人がその恩恵にあずかったとされます。
落飾し、観心院となった晩年には、赤子養育仕法設立のため、二万両を供出しました。
この時代には「仙台風」と称される藩独自の女中の作法も確立し、仙台は婦徳が発揮される気風があったといえます。

惇姫(観心院)/wikipediaより引用
そんな中、日本史上に輝く女性文人があらわれたのも、必然のことかもしれません。
工藤平助の娘であるあや子は、仙台藩江戸屋敷に生まれ、才知あふれる女性に育ち、重村の正室である惇姫に仕えて様々な見聞や己の思想を書き残しました。
後に女性文人・只野真葛として執筆に生き、かの曲亭馬琴すら舌を巻くほどの見識を発揮するのです。
仙台藩に生まれたからこそ花ひらいた、偉大な才女といえました。
そして時代が下り【明治維新】後のこと。
伊達成実を祖とする、亘理伊達家邦実正室であった保子は、屯田兵と共に北海道へ渡りました。
彼女は手製の芋団子を配り、皆を励まし、自ら開拓に励み、いつしか「伊達開拓の母」と呼ばれるようになりました。
大正2年(1913年)、仙台にある東北大学は、日本で初となる女子学生3名の入学を許可しました。
ジェンダー史の観点から見ると、仙台には女性の才知を肯定する伝統があるのです。
前述の通り、明治以降、評価がされにくい東北の歴史業績。
『べらぼう』で仙台藩に注目が集まり、再評価されることを願ってやみません。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
J・F・モリス『伊達家 仙台藩』(→amazon)
高橋富雄『陸奥伊達一族』(→amazon)
藤田覚『田沼意次』(→amazon)
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon)
他





