朋誠堂喜三二(平沢常富)

朋誠堂喜三二(平沢常富)/wikipediaより引用

江戸時代 べらぼう

『べらぼう』尾美としのり演じる朋誠堂喜三二~蔦重と手を組む武士作家の実力は?

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
朋誠堂喜三二
をクリックお願いします。

 


大物作家・朋誠堂喜三二を得るのは?

武士としての平沢常富にとって、安永年間末期は順調そのものでした。

安永7年(1778年)には留守居役助役に就任。

江戸留守居役とは、外交を務め、コミュニケーション能力も問われる役職であり、彼の才知が活かせる場といえます。

職務接待の一環として、吉原にも出入りできるようになりました。

吉原にすっかり馴染み、そこで交わった文士たちと洒落た交流をするようになっても不思議はないでしょう。

しかも、黄表紙作家として売れっ子です。

鱗形屋が潰れて燻っている朋誠堂喜三二を、あらゆる版元が引き抜こうと目を光らせていました。

『べらぼう』でも、吉原を舞台にこの売れっ子作家の争奪戦があり、今後も目が離せない状況。

実はこの伏線はもう張り巡らせてあります。

鶴屋の発言を受け、駿河屋を中心とする吉原の忘八は【地本問屋】が吉原に出入りすることを禁じていました。この出禁処置も忘八内部では意見が分かれており、このことが作家争奪戦においても効いてくることでしょう。

その最も有利な位置に居たのが蔦屋重三郎となっても不思議はない。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用

吉原を熟知し、以前から【吉原細見】(吉原ガイドブック)の執筆を依頼していた実績がある。

そして蔦重はついに勝利を収めます。

鱗形屋孫兵衛の没落後、出版が止まっていた蔦屋は安永9年(1780年)、15種もの出版物を出すのです。

その中には朋誠堂喜三二の手掛けた黄表紙が3種もありました。

 


恋川春町とのツートップで

安永8年(1779年)以来、黄表紙のライバル作家である恋川春町は筆を置いた状態でした。

『吾妻曲狂歌文庫』に描かれた恋川春町/wikipediaより引用

版元として、大手どころか吹けば飛ぶような蔦屋が、よりにもよってトップ作家を確保したのですから、これは江戸出版界を震撼させる出来事。

安永が終わり、天明に入り、飛ぶ鳥を落とす勢いとなる蔦屋重三郎の快進撃は、まさにこの朋誠堂喜三二により築かれた道と言っても過言ではないでしょう。

武士としての平沢常富は、天明年間に入っても順当に出世を重ねてゆきました。

天明3年(1783年)に居留守役本役になると、翌年には居留守役筆頭。

外交のトップに立つと同時に、文人としてもますます脂が乗ってゆきます。

時折しも【天明狂歌】ブームのど真ん中でした。狂歌師として「手柄岡持(てがらのおかもち)」というペンネームを名乗り、作品を披露していくのです。

狂歌ブームを盛り上げた大田南畝(鳥文斎栄之作)/wikipediaより引用

蔦屋重三郎も共に絶好調の時を迎えます。

天明2年(1782年)、安永8年(1779年)以来、黄表紙を執筆していなかった恋川春町が、蔦屋のもとで執筆を再開するのです。

トップクラスの黄表紙作家を二人も抱え、ますます存在感を増してゆく蔦屋。

このまま大金持ちとなるのか?

と問われれば、現実はそう甘くない。

黄表紙で名をなした武士出身の作家二人には、厳しい試練が待ち受けていたのです。

 


黄表紙受難の寛政期、朋誠堂喜三二は消えていった

天明6年(1786年)、10代将軍の徳川家治が世を去ります。

家治が重用していた田沼意次は、主人の死と共に失脚してしまい、【田沼時代】は終焉を迎えました。

田沼意次/wikipediaより引用

田沼の後任となった松平定信は【寛政の改革】を実施。

文武を奨励するスタンスで、町人のエンタメには非常に冷たい対応になってゆきます。

危険な兆候でした。

田沼時代は、江戸の地本問屋も文人も、幕政批判をしてこそ売れるという手応えがありました。

反骨精神があればこそ、利益もある。松代定信の「ブンブ」とうるさい政策なぞ、おちょくってこそ――そう思っていたのでしょう。

朋誠堂喜三二は幕政風刺を展開する黄表紙の『文武二道万石通』を執筆。

天明8年(1788年)に発表しました。

慌てふためいたのは、主君である久保田藩9代・佐竹義和です。

佐竹義和/wikipediaより引用

黄表紙からは手をひけ。狂歌ならばよろしい。そんな風に叱られたのか、ここで作家・朋誠堂喜三二は姿を消してしまうのです。

いったい何があったのでしょう?

真実はもはや不明ですが、朋誠堂喜三二は恋川春町よりもずっと幸運と言えます。

寛政元年(1789年)、恋川春町は『鸚鵡返文武二道』(おうむがえしぶんぶのふたみち)を出版。

記録的な売り上げを記録するものの松平定信に呼び出され、この年に死を遂げているのです。自害とも囁かれました。

松平定信/wikipediaより引用

武士としての平沢常富は狂歌を楽しみつつ、役目をこなし、 文化10年(1813年)まで生きました。

80近くまで生きるという長寿。

子孫も役目を引き継いでおり、平穏な人生を送ったといえます。

彼の生き方をたどることで、江戸時代の身分制度とはなにか、実感をともなって理解することができそうです。

パリピ武士として生きた彼の活躍を楽しみに待ちましょう。


みんなが読んでる関連記事

恋川春町金々先生栄花夢
『金々先生栄花夢』とは一体どんな内容だった?著者は武士の恋川春町「黄表紙」の祖

続きを見る

士農工商
実は結構ユルい「士農工商」の身分制度~江戸時代の農民や町人は武士になれた?

続きを見る

鱗形屋孫兵衛
『べらぼう』片岡愛之助が演じる鱗形屋孫兵衛~史実でも重三郎の敵だった?

続きを見る

『べらぼう』眞島秀和が演じる徳川家治~史実ではどんな将軍だったのか?

続きを見る

田沼意次
田沼意次はワイロ狂いの強欲男か それとも有能な改革者か?真の評価を徹底考察

続きを見る

大田南畝
大田南畝は狂歌師であり武士であり「武士の鬱屈あるある」を狂詩に載せて大ヒット!

続きを見る

文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
安藤優一郎『蔦屋重三郎と田沼時代の謎』(→amazon
松木寛『蔦屋重三郎』(→amazon
田中優子『遊郭と日本人』(→amazon
倉木宏一郎『江戸庶民の楽しみ』(→amazon

TOPページへ


 



-江戸時代, べらぼう
-

×
S