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【江戸城内での刃傷沙汰】
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②貞享元年(1684年)8月 稲葉正休事件
被害者:堀田正俊(大老)
父・正盛も老中を務めており、名門中の名門という出の人です。
正盛が家光に殉死したため跡を継ぎ、四代・徳川家綱に仕えました。

徳川家綱/wikipediaより引用
家綱に子供がいなかったため、一時幕閣の間で後継者争いが起きたとき、家綱の異母弟である綱吉を強く推したといわれています。
徳川綱吉もその恩を感じてか、正俊には主に財務を任せていました。
しかし、いとこおじである青野藩主・稲葉正休に突如襲われ、殺されてしまっています。
正休もその場で成敗されてしまったため、何が動機だったのかもはっきりせず、謎が謎を呼んでいます。
「大坂・淀川の治水工事について、正俊と正休の間で意見が分かれていたから」
「正盛が生類憐れみの令に反対していたため、綱吉が暗殺させた」
上記のように諸説ささやかれ、決定打はありません。
また、この事件に関係あるかどうかはわかりませんが、不可解な点が一つあります。
これ以降、綱吉が奥御殿に引きこもるようになり、老中と会いたがらなくなったことです。

徳川綱吉/Wikipediaより引用
このため、牧野成貞や柳沢吉保といった連絡役が側用人として権力を持つようになっていきます。
綱吉の時代には大きな問題にはなりませんでしたが、側用人という役職はこれ以降、何かとめんどくさい事態を引き起こすことになっていきます。
③元禄十四年(1701年)3月 浅野長矩事件
被害者:吉良(上野介)義央
あまりにも有名ですので、当コーナーでの関連記事もいくつかあるので、詳細は割愛しますね。
よろしければ併せてご覧ください。
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④享保十年(1725年)7月 水野忠恒事件
被害者:毛利師就(もろなり・第七代長府藩主)
加害者の松本藩主・水野忠恒が、たまたま「松の廊下」で師就突如気が狂い、切りつけたといわれています。
師就は刀を抜かずに鞘のままで応戦したらしく、少々の怪我のみで済みました。なにそれカッコイイ。
忠恒は元々小さい頃からアレな言動が多く、弓や鉄砲をいたずらに使うなどの奇行が多かったため、「気が狂った」というあいまいな理由でも、師就や周囲が納得したのでしょう。
供述としても「私は家臣に人気がないので、領地が取り上げられて、師就に与えられると思ったので」というワケワカメなものでした。そりゃ日頃の行いでしょ……。これは「黙って首を横に振る」しかありません。
水野家といえば徳川家康の母・於大の方の実家と、その親族・子孫たちです。

於大の方(左)と徳川家康/wikipediaより引用
このときも、忠恒は改易されたものの、叔父の屋敷に蟄居するだけで済みました。
また、家名も存続しています。死者がいなかったことも影響したかもしれません。
次は、人違いで殺されてしまったという不運な方……。
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