柳生十兵衛三厳

柳生十兵衛三厳/wikipediaより引用

徳川家

剣豪・柳生十兵衛三厳の生涯~家光に追い出されるも柳生藩主に戻った生涯44年

皆さんは柳生三厳(みつよし)をご存知でしょうか?

単に「十兵衛」と呼べば、すぐにピンとくる方も多いでしょう。

伝説的な剣術家としてフィクションでは絶大な人気を誇り、数多の作品が手掛けられてきましたが、それにはある理由があります。

将軍家の兵法指南役である柳生宗矩の嫡男なのに徳川家光の勘気を蒙り追い出され、10年以上も江戸から離れていたため「十兵衛」というキャラクターを自由奔放に描けるようになったのです。

隻眼の剣豪として活躍する様は「これぞSAMURAI!」として海外でも人気を博してきました。

それだけに、非常に勘違いも抱かれがちなのが史実としての三厳でしょう。

「十兵衛」ではなく「三厳」は一体どんな人物だったのか?

家光に追い出された後はどんな風に生きたのか。

その生涯を振り返ってみましょう。

柳生十兵衛三厳/wikipediaより引用

 


石舟斎の生まれ変わりとされた十兵衛

柳生十兵衛三厳は慶長12年(1607年)、大和国柳生庄にて、柳生宗矩の嫡男として生まれました。

「じいさまの生まれ変わりよ」

生まれたばかりの赤子を見て、祖母の春桃御前はことのほか喜んだといいます。

なんでも左肩の付け根に、祖父の柳生石舟斎宗厳(むねよし)と同じ黒子があったとか。石舟斎が没した翌年に生まれたことも、その印象を強めたのでしょう。

しかし、いきなり冷や水を浴びせるようで申し訳ありませんが、先にお断りを入れさせてください。

伝説的な剣豪として知られる柳生石舟斎宗厳は、劇的な話が多く、非常に魅力的な人物です。

それだけに伝説は伝説として愛でるようにして、史実から振り返る場合にはいったん頭をスッキリさせた方がよいでしょう。

柳生石舟斎宗厳は戦国末期、大和の英傑・松永久秀に仕えました。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用

三好長慶でもなく、筒井順慶でもなく、可能性を秘めた久秀のために、己が鍛えてきた剣を振るうことにしたのです。

時に戦で傷つきながらも、久秀に望みを託していた石舟斎。

しかしそれは脆くも崩れ去ります。天正5年(1577年)、織田信長に反旗を翻した久秀は信貴山城で自刃に追い込まれてしまいました。

兵法家に戻った宗厳は、静かに生きようとします。

そうした場面で実施されたのが豊臣秀吉の【太閤検地】でした。

柳生庄は隠し田の2千石が没収されてしまい財政的な打撃を受け、宗厳は「もはや浮かび上がらなくてもよい、石の舟として沈んで生きよう」と悟りを開き「石舟斎」と号しました。

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「徳川の刀」となる父の宗矩

沈んで生きる石の舟――そんな柳生の命運は一変します。

文禄3年(1594年)、石舟斎が黒田長政に呼び出され、徳川家康に「無刀取り」を披露することになったのです。

木刀を構えた家康と向き合う石舟斎。

年老いた兵法家は、気がつくと相手の木刀を跳ね飛ばしていました。

すっかり感服し、石舟斎に出仕の誘いをかける家康。

徳川家康/wikipediaより引用

石舟斎がそれを断ると、同行していた五男の柳生宗矩を推挙しました。

いざ家康に仕えることになった宗矩は、兵法のみならず、周囲に目を光らせる観察眼でも徳川の役に立ちました。

慶長5年(1600年)の【関ヶ原の戦い】では大和の勢力を抑え込み、【西軍】に加わらぬように誘導。

政治外交力も有する柳生宗矩は、ただの兵法家ではありませんでした。

周囲に目を光らせ、泰平の世の実現に尽くす「徳川の刀」となってゆくのです。

そんな宗矩の嫡男で、祖母から「あの石舟斎の生まれ変わりだ」とまで言われたのが柳生十兵衛三厳でした。

 


宗矩の嫡男として、家光の小姓となるも致仕

柳生十兵衛三厳は元和2年(1616年)、父に連れられ徳川秀忠に謁見を果たしました。

このとき三厳、数えで10歳。

3年後の元和5年(1619年)に徳川家光の小姓となります。

秀忠の長男でありながら、弟・徳川忠長と何かと比較されていた家光です。

徳川家光(右)と徳川忠長/wikipediaより引用

乳母である春日局からすれば、家光を教え導いた宗矩の嫡男は、小姓としてぜひそばに置きておきたい人物だったでしょう。

柳生庄から江戸へ出てきた三厳――その将来は、若手エリートとして輝かしい道が約束されていたかのようにしか見えません。

実際、元和7年(1621年)になると、父の宗矩は家光の兵法指南役に任ぜられました。

宗矩は、武芸のみならず、精神性を鍛えるよう教え導き、家光から絶大な信頼を得ています。

それだけに、元和9年(1623年)に家光が晴れて3代将軍となったときは、宗矩の感慨もひとしおであったことでしょう。

宗矩も6年後の寛永6年(1629年)3月、従五位下に叙位され、但馬守となりました。

柳生宗矩の木像(芳徳寺)/wikipediaより引用

では小姓だった柳生十兵衛三厳は?

同年、三厳は家光の勘気を被って致仕とさせられました。

要するに、家光を怒らせ、解雇されたのです。

側近として父は絶大な信頼を得ているのに、嫡男の三厳がなぜ? いったい何をやらかしたんだ?

原因は、酒乱であるとか、粗忽者であったとか、諸説あって確定していません。

とにかく、何か重大なことをしでかしたのは間違いないのでしょう。

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