皆さんは柳生三厳(みつよし)をご存知でしょうか?
単に「十兵衛」と呼べば、すぐにピンとくる方も多いでしょう。
伝説的な剣術家としてフィクションでは絶大な人気を誇り、数多の作品が手掛けられてきましたが、それにはある理由があります。
この柳生十兵衛三厳、将軍家の兵法指南役である柳生宗矩の嫡男なのに徳川家光に追い出され、10年以上も幕府から離れていたため、フィクションでは「十兵衛」というキャラクターを自由奔放に描けてしまう。
隻眼の剣豪として活躍する様は「これぞSAMURAI!」として海外でも人気を博してきました。
それだけに、非常に勘違いされがちなのが史実としての三厳でしょう。
「十兵衛」ではなく「三厳」は一体どんな人物だったのか?
家光に追い出された後はどんな風に生きたのか。

柳生十兵衛三厳/wikipediaより引用
その生涯を振り返ってみましょう。
石舟斎の生まれ変わりとされた十兵衛
柳生十兵衛三厳は慶長12年(1607年)、大和国柳生庄にて、柳生宗矩の嫡男として生まれました。
「じいさまの生まれ変わりよ」
生まれたばかりの赤子を見て、祖母の春桃御前はことのほか喜んだといいます。
なんでも左肩の付け根に、祖父の柳生石舟斎宗厳(むねよし)と同じ黒子があったとか。石舟斎が没した翌年に生まれたことも、その印象を強めたのでしょう。
しかし、いきなり冷や水を浴びせるようで申し訳ありませんが、先にお断りを入れさせてください。
伝説的な剣豪として知られる柳生石舟斎宗厳は、劇的な話が多く、非常に魅力的な人物です。
それだけに伝説は伝説として愛でるようにして、史実の石舟斎もスッキリ整理しておきましょう。
柳生石舟斎宗厳は戦国末期、大和の英傑・松永久秀に仕えました。

2020年3月に高槻市の市立しろあと歴史館が発表した松永久秀の肖像画/wikipediaより引用
三好長慶でもなく、筒井順慶でもなく、可能性を秘めた久秀のために、己が鍛えてきた剣を振るうことにしたのです。
時に戦で傷つきながらも、久秀に望みを託していた石舟斎。
しかしそれは脆くも崩れ去ります。天正5年(1577年)、織田信長に反旗を翻した久秀は信貴山城で自刃に追い込まれてしまいました。
兵法家に戻った宗厳は、静かに生きようとします。
そうした場面で実施されたのが豊臣秀吉の【太閤検地】でした。
柳生庄は隠し田の2千石を没収されてしまい、宗厳は「もはや浮かび上がらなくてもよい、石の舟として沈んで生きよう」と悟りを開き「石舟斎」と号したのです。
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「徳川の刀」となる父の宗矩
沈んで生きる石の舟――そんな柳生の命運は程なくして一変します。
文禄3年(1594年)、石舟斎が黒田長政に呼び出され、徳川家康に「無刀取り」を披露することになったのです。
木刀を構えた家康と向き合う石舟斎。
年老いた兵法家は、気がつくと相手の木刀を跳ね飛ばしていました。
すっかり感服し、石舟斎に出仕の誘いをかける家康。

徳川家康/wikipediaより引用
石舟斎がそれを断ると、同行していた五男の柳生宗矩を推挙しました。
いざ家康に仕えることになった宗矩は、兵法のみならず、周囲に目を光らせる観察眼でも徳川の役に立ちました。
慶長5年(1600年)の【関ヶ原の戦い】では大和の勢力を抑え込み、【西軍】に加わらぬように誘導。
政治外交力も有する柳生宗矩は、ただの兵法家ではありませんでした。
周囲に目を光らせ、泰平の世の実現に尽くす「徳川の刀」となってゆくのです。
そんな宗矩の嫡男で、祖母から「あの石舟斎の生まれ変わりだ」とまで言われたのが柳生十兵衛三厳でした。
宗矩の嫡男として、家光の小姓となるも致仕
柳生十兵衛三厳は元和2年(1616年)、父に連れられ徳川秀忠に謁見を果たしました。
このとき三厳、数えで10歳。
3年後の元和5年(1619年)に徳川家光の小姓となります。
秀忠の長男でありながら、弟・徳川忠長と何かと比較されていた家光です。

徳川家光(右)と徳川忠長/wikipediaより引用
乳母である春日局からすれば、家光を教え導いた宗矩の嫡男は、小姓としてぜひそばに置きておきたい人物だったでしょう。
柳生庄から江戸へ出てきた三厳――その将来は、若手エリートとして輝かしい道が約束されていたかのようにしか見えません。
実際、元和7年(1621年)になると、父の宗矩は家光の兵法指南役に任ぜられました。
宗矩は、武芸のみならず、精神性を鍛えるよう教え導き、家光から絶大な信頼を得ています。
それだけに、元和9年(1623年)に家光が晴れて3代将軍となったときは、宗矩の感慨もひとしおであったことでしょう。
宗矩も6年後の寛永6年(1629年)3月、従五位下に叙位され、但馬守となりました。

柳生宗矩の木像(芳徳寺)/wikipediaより引用
では小姓だった柳生十兵衛三厳は?
同年、三厳は家光の勘気を被って致仕とさせられました。
要するに、家光を怒らせ、解雇されたのです。
側近として父は絶大な信頼を得ているのに、嫡男の三厳がなぜ? いったい何をやらかしたんだ?
原因は、酒乱であるとか、粗忽者であったとか、諸説あって確定していません。
とにかく、何か重大なことをしでかしたのは間違いないのでしょう。
柳生十兵衛、11年間の空白
徳川家光を怒らせ解雇された柳生十兵衛三厳――そのハッキリとした原因は不明なため、創作物では自由自在に盛られます。
稽古で家光を遠慮なしに打ち据えたとか。
ズケズケと家光の痛いところを言っていたとか。
はたまた「そもそもが偽装である」とか。
とにかく史実では11年間、江戸に戻らなかったのは事実。
20歳から31歳という脂の乗り切った時期に、三厳は江戸を離れていたのです。

弘化年間(1844~1848年)の江戸/wikipediaより引用
フィクションで「あばれ旅」だの「何番勝負」だのをしているのは、この間という設定になるのでしょう。
実はその間も父の柳生宗矩は出世を遂げています。
寛永9年(1632年)には3千石が加増されて6千石となり、初代幕府の惣目付(大目付)にも就任、老中および諸大名の監察という重要な職務を与えられました。
父が大目付で、その長男が江戸にいない――これは父の密命を帯び、何か調査でも任されていたのでは?と、作家の脳内を刺激する格好の材料となってしまいますね。
あくまで史実に基づいた宗矩の出世の記録です。
彼の躍進は止まらず、寛永13年(1636年)になるとさらに4千石の加増を受けて計1万石となり、ついには大名となるのです。
大和柳生藩が成立したのでした。
家光に重用された弟・友矩
大名への出世を果たし、前途洋々の柳生宗矩にも困ったことがありました。
跡取りです。
誰に同家を継がせるか――もはや柳生十兵衛三厳に期待できぬとあらば、できるだけ早いうちに別の弟を立て、将軍に引き合わせなければならない。

柳生陣屋跡/wikipediaより引用
そこで白羽の矢を立てられたのが柳生左門友矩(とものり)でした。
兄の三厳よりも一回り若く、慶長18年(1613年)に生まれた友矩。
寛永4年(1627年)に家光に初謁見を果たして小姓となると、首尾よく気に入られ、寛永11年(1634年)には徒士頭へ出世。
さらには父の宗矩に並ぶ従五位下刑部小輔に叙任し、山城国相楽郡に2千石の領地を授かるのでした。
宗矩としては一安心でしょう。
後は然るべきタイミングで柳生藩を引き継がせ、自身は隠居生活を……なんてことも思ったはず。
その矢先のことでした。
寛永16年(1639年)6月に友矩は、わずか27歳という若さで命を落としてしまうのです。
病に冒されての死でありましたが、若くして異例の出世を遂げた友矩の夭折もまた、十兵衛と同様、格好のネタとされてしまいます。
フィクションでは、死因を捏造され、敵に斬られることは定番。
男色だった家光から寵愛を受けたのは友矩の美貌ゆえとされることも多く、過度な接近を危険視した宗矩から死に追いやられるという展開もしばしば見られます。
場合によっては、そこに十兵衛を絡ませるパターンもあります。
十兵衛に弟・友矩の仇討ちをさせたり、ときには弟にとどめを刺したり、フィクションですのでそこは自由自在に描かれてきまました。
なお、こうしたフィクションの一例として、隆慶一郎『柳生非情剣』を漫画化した『柳生非情剣 SAMON』があります。
同作は、柳生友矩と徳川家光の悲恋ブロマンスとして読むことができます。

『柳生非情剣 SAMON』(→amazon)
帰って来た十兵衛
柳生十兵衛三厳が江戸に姿を表したのは寛永14年(1637年)のことでした。
柳生藩邸で父から武芸を習いながら、三厳は祖父や父から伝わる教えを伝書として書き始めます。
しかし、それを父に提出したところ
「すべて焼き捨てよ」
と、にべなく突き放されました。困った三厳は、禅僧・沢庵宗彭(そうほう)に相談を持ちかけます。

沢庵宗彭/wikipediaより引用
沢庵は【紫衣事件】で幕府に罰せられながら、宗矩らのとりなしもあり、家光を教え導くようになっていたのです。
宗矩も教えを受け、「剣禅一如」の境地に達したとされます。
技術だけではない。
武芸だけでは足りぬ。
禅の境地まで至るべし――そんなところでしょうか。
三厳はその後も、加筆訂正を加えて宗矩に提出してはダメ出しをされるという展開を迎え、そんなことを幾度も繰り返しているうちに、自身も父もいい加減疲れ果てたのでしょう。
「こんな車の押し合いのようなことをしていても仕方あるまい」
結局、宗矩が折れ、子の武芸書に父が加筆して一冊にまとめたとされます。
かくして三厳は父の教えを理解し、印可を授かったのです。
宗矩は「ゆめ修行を怠るな」と付け加えることを忘れませんでした。
江戸城御書院番として出仕
三厳が再び将軍の元へ出仕するのは寛永15年(1638年)のことです。
寛永16年(1639年)に亡くなる弟の友矩は寛永15年から病を患っていて、先に役目を退いており、そこで兄の三厳が江戸城御書院番として出向いたのでした。

江戸城/wikipediaより引用
三厳は、もはや家光を怒らせた頃の若造ではありません。
強く武勇に長け、威風堂々、家中の誰もが畏敬の念を抱く姿であったと伝えられます。
寛永16年(1639年)には、弟の柳生宗冬、柳生高弟の木村助九郎友重と共に武芸を披露、さらに寛永19年(1642年)には、新陰流の極意『月之抄』をまとめました。
謹慎中の見聞やこれまで書き溜めていた著作を元にして、書き上げたのです。
正保3年(1646年)になると父の宗矩が病み、自邸で療養していると、その見舞いに家光自らが訪れたとされます。
病床で新陰流の奥義を伝えつつ、世を去った父の宗矩。
享年76。
跡を継いだ三厳は、寛大さも身につけました。
家中の者に優しく、処罰も控え、それでいて自身は質実剛健を貫く――まさしく堂々たる柳生の二代目と言える十兵衛三厳でしたが、思いがけぬことが起こります。
柳生十兵衛三厳、死す
慶安3年(1650年)、柳生十兵衛三厳は弟・友矩の旧領にいました。
この領地は友矩の死後、宗矩のものとされており、変わらず柳生の土地――そこで鷹狩をしていた折に、三厳が急死を遂げたのです。
享年44。
三厳には二人の娘しかおらず、跡取り無くしては改易とされても仕方ありません。
しかし幕府は父・宗矩の代からの勲功を考慮し、主膳宗冬が継ぐことで御家存続を認めました。宗冬は兄・三厳の娘二人を育て上げ、旗本に嫁がせます。
宗冬は、武芸はさほどでもないとされますが、実務には長けた人物でした。
三厳、宗冬、義仙の三兄弟で分かち合っていた柳生の所領を一本化して一万石以上とし、大名復帰を成し遂げます。
実は三厳の代では、一万石以上を有していなかったんですね。
それでも便宜上、柳生藩主二代目とされ、三代目以降は宗冬の系統となりました。

柳生家一族累代之墓所/wikipediaより引用
以上、史実における柳生十兵衛三厳の人生を振り返ってきました。
酒乱であったとか。
父や沢庵から迂闊さを嗜められたとか。
そんなヤンチャな振る舞いと共に、立派な人柄も伝えられる人物であり、当人の著作も名文。
フィクションとは異なり、真っ当な道も歩んでいます。
ただし、ここで筆を置いてしまうのはいささか勿体無くも思います。
やはり柳生十兵衛三厳と言えば、フィクションにおける「十兵衛」の魅力が欲しい。
ざっくばらんに言えば「自由に暴れ回る姿がカッコエエ!」わけですね。
いったい彼はなぜ、ここまで好き放題に描かれてしまうのか?
最後に、時代作品のヒーローである「柳生十兵衛」の姿を考察してまいりましょう。
隻眼だったのか?
日本史を代表する隻眼の英雄といえば伊達政宗と柳生十兵衛でしょう。
しかし、実は文献上では確認できません。
あくまで伝承の類なんですね。
また、刀の鍔を眼帯とすることもお約束ですが、重さや摩擦を考えると、かなり非現実的と言えます。
では、いったい過去に何があって隻眼となったのか?
フィクションであれば、その理由も自由に設定でき、物語の方向性に影響を与えたりすることもできる。
・稽古中の事故
・宗矩の激しすぎる稽古(虐待)で目を潰してしまい、ひいては親子仲がこじれる原因ともなる
・強敵との対決で隻眼となった(※劇中で隻眼になる場合もある)
剣豪枠である十兵衛の場合、隻眼という特徴だけで見どころや強さを形成できるんですね。
事前の設定だけで非常に魅力的なキャラクターとなっているではありませんか。

『Y十M(ワイじゅうエム)~柳生忍法帖~』1巻(→amazon)
全国を旅して回り 何をしていた?
日本には「回国伝説」があります。
誰かが全国を歩き回り、行く先々で事件を解決するというもので、鎌倉幕府の第5代執権・北条時頼から水戸黄門まで、おなじみのパターンですね。
柳生十兵衛の場合、剣豪として脂の乗り切った20代の間、出仕せずに過ごしています。
しかも後に「この期間に様々な経験を得た」と振り返っている。
もう自由自在に描ける土壌が整いまくっています。
しかも、父の柳生宗矩は初代幕府惣目付であり、大名に目を光らせる存在でした。
そのため我が子・十兵衛と柳生高弟を派遣し、全国の諸勢力に対して探りを入れていた、という設定にすることも容易。
物語を作る側からしたら、実に美味しい存在なのです。
謎の死
柳生宗矩の子である柳生十兵衛と柳生友矩の兄弟は、二人とも若くして、しかも不可解な状況で死しています。
これまたフィクションでは自由に味付けできる要素。
好き勝手できるということは「敵との戦いで散ってもよい」という、物語にはありがたい状況でした。
父殺し:宿命の対決
SF映画『スターウォーズ』屈指のハイライトは、ルーク・スカイウォーカーとダース・ベイダーの対決でしょう。
◆ ダース・ベイダーは「ルーク、私がおまえの父親だ」と言っていない!(→link)
敬愛すべき父を斬らねばならぬ息子――宿命の対決はどうしたって盛り上がりますが、倫理面から見た事の重さゆえ、長いことタブーでもありました。
それを破るヒーロー像は斬新で持て囃されます。
そんな父子像が、柳生宗矩と十兵衛には託されているのでしょう。
史実を追えばそこまで対立していないのに、フィクションの作品が作られる時代の価値観が反映され、父子の関係も何かと色付けされてゆきます。
明治維新を迎えても日本人はチャンバラを愛していました。
講談や歌舞伎に小説、ラジオ、映画、そしてテレビにゲーム、漫画まで、今に至るまでそれは続いています。
しかし、それが危機に瀕した時代もありました。
【アジア太平洋戦争】の敗戦直後です。
それまで日本人は剣豪の物語を通じて「武士道」を育んできた経緯があり、その状況を危惧したGHQがチャンバラ作品にも規制をかけたのです。
結果、意識は変わってゆきます。
確かにチャンバラ作品は楽しい。
子どもの頃に貪り読んだ。
しかしこれが、あの敗戦へと向かう武士道意識も醸成していたのか?
例えば、戦前に青少年を熱狂させた作品に吉川英治の『宮本武蔵』があります。敗戦後は、その愛憎がぶつけられたのか、宮本武蔵を悪どく描く作品も発表されるようになりました。
柳生宗矩と十兵衛の場合はどうか?
というと「父殺し」の物語として再生されます。
政治に接近し、将軍という権力に媚を売り、諸大名を監視することで権勢を得ようとする宗矩。
そんな狡猾な父に対し、反発する十兵衛。
権力に取り入ることよりも、自由に己の生き方を求めるべきではないか?
権力のために犠牲を厭わぬその姿はあまりに醜い!
そう父にまで剣を振るう像が、昭和が求めたヒーロー像でした。
『エピソード5 /帝国の逆襲』公開が1980年。
それを遡ること2年、1978年『柳生一族の陰謀』にて、十兵衛は宗矩の手首を斬り落としていたのです。

柳生一族の陰謀(→amazon)
柳生十兵衛は、描く人の数だけ姿がある、いわば自由な存在です。
これからも作者と時代の空気を剣に載せ“あばれ旅”を続けていくことでしょう。
民放娯楽時代劇の減少と共に彼の存在感が薄れていくのは惜しまれること。
どんな形でもいい。あの隻眼のヒーローが見たい。いっそヒロインになってもいい!――そう願うばかりです。
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【参考文献】
新人物往来社『剣の達人データファイル』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
他





