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【寛政の改革】
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稗(ひえ)を備蓄せよ、と言われても
天明八年(1788年)、稗(ひえ)の作付けを奨励し、米以外に稗も蓄えておくよう、各地の農村へ命じました。
稗を貯蓄するための蔵(くら)の建材は幕府から下賜されるというから本気です。

江戸時代の農業百科事典『成形図説』に描かれた稗(ひえ)/wikipediaより引用
しかし、現実には中々進まなかったので、寛政二年(1790年)に改めて「4~5年以内に蔵を造るように」という命令が下されました。
いくら平常時に戻りつつあっても「飢饉に遭った数年後に貯蓄を始めろ」というのは結構厳しいですよね?
現代に無理やり置き換えれば「数年失業した後に百万円貯めろ」と言われているみたいな感じでしょう。
・七分積金の法
こちらは前身となる制度から説明しておきますと……。
当時、江戸城では、年貢の一部を不作時の救済分として蓄え、いざというときは農民に貸し付ける”置米仕法(おきまいしほう)”がありました。
しかし、貸す頻度が高くなって成立しなくなり、幕府が別途貯蓄していた米も財政難により廃止されていました。
「いざとなったら金を借りて米を買えばいい」と判断されていたようです。
借金に抵抗がなさすぎる点と、米価が釣り上がった場合のことを考えていなさそうなところが危険ですね。
定信は
「米をきちんと蓄えておけば借金などしなくても済む」
「そもそも武士が町人に頭を下げて金を借りるなど言語道断」
と考えていたため、別の方法を探しました。
当初は祖父・吉宗がやっていた”上米の制”を復活させるという案もあったようです。

徳川吉宗/wikipediaより引用
上米の制は、参勤交代で江戸に滞在する期間を半年にする代わりに、領地の石高一万石あたり百石の米を幕府に納めさせるという制度でした。
最大の藩・加賀藩では上納する分がちょうど一万石になります。
しかし、11代将軍・家斉の以下のような命令で棚上げになったとされます。
「私の生活は切り詰めても良いが、大名たちに負担を強いるな」
家斉は当時、満14歳の少年でしたが、定信よりも大名たちの実情が見えていそうですね。
そこで対案として考えられたのが【七分積金の法】です。
江戸では町の役人や祭礼費用などに当てるお金を町人たちから集めていました。
”町入用(まちにゅうよう)”と言い、現代でいえば住民税+町内会費みたいな感じですね。
定信は町入用の用途を調べると、節約を徹底させ、そのうちの70%を積み立てに回し、籾の買い置きや生活難の人々の救済費用に当てさせたのです。
これが七分積金の法ですね。
また、大名には囲籾(囲米)を義務づけました。
天明の大飢饉が拡大した理由のひとつが、米どころだった各藩の大名たちが財政改善のため米をひたすら売りまくり、ほとんど備蓄していなかったことでした。
定信は「それではいかん」と考え、飢饉の再来に備えて備蓄を命じています。
さらに年貢徴収役人である代官の不正を厳しく取り締まりました。
棄捐令 寛政元年(1789年)
旗本や御家人を救済するため、天明四年(1784年)12月以前の借金を全てチャラにし、以降は幕府が決めた新しい利率でお金を貸すようにする――。
それが棄捐令(きえんれい)です。
パッと聞いた感じ、かなり乱暴な話ですよね。
鎌倉時代の徳政令あたりを思い出すかもしれません。
当然、金貸し(当時は「札差」)からすると大損ですが、それでも金を借りる武士が消えたわけではないので、廃業する者は少なかったそうです。
暴利がなくなっていくらか健全になった、というところでしょうか。
「そもそも、なぜ武士が借金をしなければならないのか?」
本当は、そこへ切り込まないと同じことの繰り返しなのですが、当時その発想はありませんでした。
なんせ武士の給料は基本的に米。
米を銭に替えなければ生活ができず、時々によってレートが変わってしまうため、結局は貨幣経済に支配されるという構造的な欠陥があったのです。
【享保の改革】のときには、金銀含有率の低下で通貨の価値を下げて、米の価値を相対的に上げる――なんてことが行われたほどです。
それを受けてなのか、江戸の豪商10名を勘定所御用達 (ごようたし) に登用して出資を命じたり、上方からの下り酒に対抗して、関東の豪農に銘酒を作る試みをさせるなど、新たな経済政策も打ち出しています。
この辺が田沼意次の政策と似通っているとする見方もあります。
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