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【寛政の改革】
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加役方人足寄場の設置 寛政二年(1790年)
他の地域から流れてきた無宿者(ホームレス)や軽犯罪者を収容し、社会復帰を促すための労働をさせる場所です。
現代で言えば、刑務所とかハローワークを合わせたような感じですかね。
詳しくは、長谷川平蔵の記事で触れていますのでご参照ください。
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『べらぼう』中村隼人演じる長谷川宣以(平蔵)鬼平犯科帳モデルの生涯とは?
続きを見る
寛政異学の禁 寛政二年(1790年)
寛政異学の禁とは「武士の気風を統一するため、朱子学以外の儒教を禁じる」というものです。
幕府関連の教育機関で朱子学を徹底させよう――というもので全国的な命令ではありません。
また「異」の字が入っているため勘違いしがちですが「異国の学問=蘭学」を禁じたものでもありません。
この時代に日本に入ってきていた蘭学=西洋の学問は、自然科学や医学に関することが主体で、幕府が危惧するような政治的・宗教的思想が薄かったためです。
禁令が出る一年前、1789年にはフランス革命が起きていますので、もしそういった思想が入りそうだったら、定信も全ての西洋学問を排除したかもしれませんね。
幕府も長崎のオランダ商館からある程度の西洋事情を把握していましたので対応はできています。

バスティーユ襲撃/wikipediaより引用
ともかく思想統一のために学問を制限する、というのは言論統制に繋がりやすい一面もあります。
それを危惧した儒教の他の学派に属する学者たちはこの禁令に大反対しましたが、幕府は強行。
結果、朱子学以外の学派は廃れ始め、私塾を畳む学者も出てしまいます。
各地の藩についてはそこまで厳正な縛りがあったわけではないのですが、結局は、江戸に釣られるようにして、徐々に朱子学が中心になっていきました。
ただし、御三家の一つである尾張藩や、井伊直政や井伊直虎でお馴染みの彦根藩、あるいは東北の秋田藩では別の学派の儒学者を採用しています。
特に幕府のお咎めはなかったようですので、定信の狙いは「幕府に直接関わる武士の思想統一」だったのでしょう。
同時に定信は出版統制令を出しています。
大河ドラマ『べらぼう』を直撃する話で、好色本や、政治批判・風刺を含んだ本の出版を禁じています。
蔦屋重三郎や読本の作者たちにとってはとんでもなく迷惑な話でした。そこをどう対応していくか、今後の劇中でも大きく取り扱われでしょう。

蔦屋重三郎/wikipediaより引用
失敗の原因は何か?
最終的に松平定信が失脚したため「寛政の改革は定信がワンマンで進めたから、責任を取らされたんだ」と思われがちです。
しかし、定信は少なくとも形としては独裁ではありません。
他の老中や後ろ盾の一橋治済などに相談して行っていました。
大河ドラマ『べらぼう』をご覧になっていれば、背後に一橋治済がいたからダメなんだろ!と思われるかもしれません。
しかし、これほど多岐に渡る政策を実行できたのは、やはり定信の実務能力が優れていたからでしょう。
問題は”人心”が理解できていなかった点かもしれません。
上は将軍・大奥から下は庶民に至るまで、娯楽に関することをギチギチに取り締まったため、財政的には上向いたにもかかわらず、定信を恨む声のほうが強くなってしまったのです。
定信自身も多くの趣味を持つ教養人ではありました。
『べらぼう』の中でも青本を読み、思わず笑ってしまうというシーンもありましたよね。頭が良いからこそ洒落も通じるのでしょう。
それがなぜか、”娯楽が人の心に必要不可欠である”ということまでは理解できなかったようで……。
定信は「房事は子供を作るための最低限で問題ない」と言っていたくらい欲が薄かったので、人の欲が経済を生み出すことが理解できなかったのかもしれません。
また、定信の時代には【尊号一件】というトラブルも起きていました。
朝廷と幕府のちょっとしたトラブルであり、ときの帝・光格天皇が、父の閑院宮典仁親王(かんいんのみや・すけひとしんのう)に太上天皇の尊号を贈ろうとして、幕府(主に定信)が異を唱え、朝幕関係が冷え込みかけた……というものです。

光格天皇/wikipediaより引用
閑院宮家は、六代将軍・徳川家宣の時代に創設された比較的新しい宮家。
血筋や歴史の長さを何より重んじる皇室や朝廷では、格下にみられがちな立ち位置です。
しかし、他に皇位を継げる男子がいなかったため、光格天皇が選ばれました。そういった引け目もあって、光格天皇は父宮に尊号を贈ろうとしたのでしょう。
この件は光格天皇も定信もなかなか譲らず長引いたのですが、結果的に、光格天皇の義母にあたる後桜町上皇が、
「称号を送るより、貴方様の御代が長く続くことのほうが親孝行になりますよ」
と光格天皇を諭したこともあり、何とか収まっています。
詳しくは以下の記事で触れていますので、気になる方は併せてご覧ください。
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光格天皇は知られざる名帝か 幕府にも引かない「尊号一件」と「御所千度参り」
続きを見る
こうした一件があったからか。
徳川家斉が実父・一橋治済へ大御所の称号を与えようとしたときも、定信らの大反対で実現に至りませんでした。
「皇室に例外を認めなかったのに、将軍家でそんなことができるか!」
そりゃあもっともな話ですよね。
しかし定信は寛政五年(1793年)7月、老中及び将軍補佐役を退くことになります。
権力的には大御所同然だった一橋治済の心象を大きく損ねたこと。
改革自体が効果絶大ではなかったこと。
幕府内外の恨みを買いすぎたこと。
これらによって政治的に孤立してしまい、代表者の地位から遠ざけられたのです。
といっても、しばらくは「寛政の遺老」と呼ばれる重臣たちによって、似たような施策が続きました。
つまりは定信が政治的に孤立したため改革の途中でクビになったわけで、改革が失敗したからクビになったわけではないのです。
まぁ、上手くいってるわけではなかったので、そのうちお役御免となった可能性は高いかもしれませんが。
★
真面目は美徳かもしれない。
されど、真面目だけで世の中がうまく回るわけではない。
田沼意次のように貨幣経済も同時に取り入れ、税制改革なども進めればよかったのですが……後世の私たちが何を言っても仕方ないですね。
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長月 七紀・記
【参考】
『松平定信 政治改革に挑んだ老中 (中公新書)』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ほか