”源平の戦い”ってどんなイメージがあります?
「調子に乗った平氏を源氏がフルボッコにした」
ともすればそんなイメージを持たれるかもしれませんが、実際は一進一退だった時期も結構あったりします。
そもそも戦いって、どちらが勝つかわからないから成立するものですしね。
有名なエピソードがほとんど源氏優勢な話なので、そういう印象が強くなったんでしょう。
決定的に体勢が傾いたのは【一ノ谷の戦い】で、その後の平家もスンナリやられたワケではなく、もう一度挽回しようと頑張ったことがありました。
そうして文治元年(寿永四年・1185年)2月19日に起きたのが【屋島の戦い】です。
那須与一が『扇の的』で大活躍したアノ一戦ですね。
それは一ノ谷の戦いから約一年後のことでした。

屋島古戦場 遠望 (屋島山上より望む)/photo by
Saigen Jiro wikipediaより引用
お好きな項目に飛べる目次
日宋貿易で積み重ねた資産や航海技術
屋島は、現在の香川県高松市にあります。
平家はここを本拠として周辺諸国からの年貢を分捕って力を蓄えていました。さらには内裏(天皇の住まい)にあたるものも作っています。
もちろん大天狗こと後白河法皇がおkを出すわけもなく、「戦をやめんかい(そしてワシに従え)」という手紙を送りつけますが、平家が素直に聞くことはありません。
-
大天狗と称された後白河天皇(後白河法皇)若かりし頃を振り返ってみる
続きを見る
そりゃあ、一ノ谷のときにハメられてますからね。
ならばなぜ「物資が集まる前に手を打たなかったんだ?」という気もしますが、これは平清盛の遺産みたいなものです。
-
平清盛が平安末期に絶大な権力を握れたのはナゼ?院政と合わせて確認だ
続きを見る
清盛の時代に日宋貿易(当時の中国・宋王朝との貿易)をやっていたので、平家は水軍(今でいう海軍)を持っており、航海技術もありました。
一方、源氏はそもそもまとまったのがつい最近のこと。対抗できる水軍がなく、新たに組織することもできず、攻めあぐねていたのです。
範頼は鎌倉へ戻り、義経は京へ
その間、平家は、ますます物資を得て、一ノ谷ですっからかんになっていた人材を物量で補おうとしていました。
「こりゃ、一筋縄ではいかんわ」
そう判断した源氏側は、いったん進軍を止めて二手に分かれます。
-
源範頼(頼朝の弟)の不審死~10人以上いた兄弟で消されたのは義経だけでなく
続きを見る
-
源義経31年の儚き生涯まとめ! 兄・頼朝とすれ違い続けた悲しき英雄とは
続きを見る
範頼は鎌倉へ戻って源頼朝の指示を仰ぎ、義経は京へ残って市街ごと皇居を守ることにしました。
義経というと後に頼朝との仲違いで京から出たとき、静かに出て行ったためありがたがられたという話がありますが、民衆からの人気はこの頃得たものかと思われます。
まぁ木曽義仲(源義仲)のアレコレがあった後ですから、余計よく見えたのかもしれませんけどね。
-
源義仲(木曽義仲)31年の激しい生涯! 後白河と頼朝の政治力に翻弄された挙兵
続きを見る
頼朝は、源範頼を総大将として派遣したが
さて、範頼から経過を聞いた源頼朝は、改めて平家打倒の作戦を練ります。
-
源頼朝53年の生涯まとめ! 出生から鎌倉幕府の設立 死因 その素顔に迫る
続きを見る
そして「義経を総大将とした追討軍を認めてください」という手紙を後白河法皇に送りますが、ここで平家の地元かつ都の近所である伊賀と伊勢で大規模な反乱が起き、すぐに動けた義経がしばらくこの方面を担当せざるを得なくなりました。
頼朝はさぞ歯噛みしたでしょう。
代わりに範頼を総大将として平家を追わせます。
が、九州にまで延々と伸びた戦線と船の不足で追い込みきれず、兵糧も減り続け、逆に源氏がどこからどう見てもヤバイ状態になってしまいました。
こうなると当然士気はガタ落ちしますし、ヘタをすれば範頼の身すら危うくなります。
そこで範頼は頼朝にかくかくしかじかを報告する手紙を書きました。ホントまめなお人やで。
※続きは次ページへ