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天狗倶楽部/wikipediaより引用

いだてん特集 明治・大正・昭和時代

天狗倶楽部(てんぐくらぶ)が大河いだてんを盛り上げる!日本初のスポーツ倶楽部

更新日:

歴史好きの皆様には、いまいち反応のよくない2019年大河ドラマ『いだてん』。
確かに、オリンピックを主としたドラマですから、戦国武将の合戦謀略や、幕末志士たちの波乱万丈をお好みの方に、どストライクとは言い難い内容でしょう。

しかし、見放すのはまだ早い。
少しだけ話にお付き合いください。なにも脚本が宮藤官九郎さんだから大丈夫といった気休めを申すつもりはありません。

歴史的エンタメの要素が薄いと思われる『いだてん』でも、十分に熱い話が期待できるのです。

根拠はあります。
我が国にレジャーとしてのスポーツが導入されたのは明治時代からであり、当初は様々な軋轢なども生まれました。

たとえば当時は
「野球なんてけしからん!」
という風潮があり、そこにドラマも生まれました。

今回、注目してみたいのは、野球のみならずスポーツ全体を日本に広めた天狗倶楽部です。
まずは明治時代の様子から見てまいりましょう。

 

日本近代スポーツの黎明期とは

明治の世を迎え、近代化へと舵を切った日本。
様々な文物を吸収し、急激な西洋化をすすめる中、「スポーツ」も上陸しました。

江戸時代まで、スポーツといえば武家の鍛錬である剣術、馬術、弓術といったものが主流です。
庶民に慣れ親しんだ相撲もありましたが、西洋由来のスポーツは日本人にとって未知のものであり、特に武士教育を受けた幕末の人たちからは「けしからん!」となりがちでした。

剣術や柔術は武士のたしなみであり、神聖な道場で鍛錬すべきものです。
しかし、西洋由来のスポーツは純然たる娯楽。健康促進という名目はあるものの、従来の価値観からはとても受け容れられません。

そんなメンタリティとは無縁なのが、明治以降に誕生した若者たちです。

「楽しくて、体によくて、ワクワクする! スポーツって最高だぜ!」
「江戸時代生まれのおじちゃんにはわからねえよな!」

血気盛んな彼らにとってはこうなるワケで。
一方の年配層から見ると、スポーツを好む若者は「あんな娯楽性の高いものを好む輩どもめ!」とすら思われておりました。

明治時代、スポーツに関わる論争は、世代間での対立にもつながっていたわけですね。

『いだてん』の舞台は、そういう時代。
明治が舞台でちょっとなぁ……と思っていた方、なんだかワクワクしてきませんか?

 

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野球やろうぜ!「天狗倶楽部」誕生!!

そんな時代に結成されたのが愉快痛快な「天狗倶楽部」です。
きっかけは、野球の試合でした。

「若者が野球に夢中になると精神に悪影響が及んでしまう!」

当時はそんな【野球害毒論】が提唱されておりました。
現代人からすると口あんぐりですが、若者の【オレたちゃ堂々を野球をやるぜ!宣言】は、大人への抵抗でもあったのです。

始まりは1909年(明治42年)頃。
ドラマで武井壮さんが演じる冒険小説家の押川春浪(おしかわしゅんろう)です。

彼が声をあげて、野球の試合を始めたことが「天狗倶楽部」誕生のキッカケでした。
スポーツを楽しむ、日本初のレクリエーションクラブです。

結成が「頃」と曖昧なのは、主宰者の押川すら。
「どういうきっかけだったかなあ」
と回想するほどでして。

おそらくやノリで集まって、あれよあれよと膨れあがっていったのでしょう。
ちょうど現代のネットカルチャーが、次々に新たなノリで新サービスが産まれていくのと似ているかもしれません。

この押川は、冒険心あふれる活きの良い青年でした。
5才下の弟・清が野球選手として才能を見せ始めたことをきっかけに、野球というスポーツにのめりこんでいったのです。

押川清/wikipediaより引用

 

野次将軍の吉岡やインテリ派の中沢

押川の周辺には「快男児」と自覚する多くの青年が集まってきました。

例えば、名物応援団員の吉岡信敬(よしおかしんけい)
野球選手としてはまずまずながら、ともかく応援が素晴らしく、「野次将軍」というあだ名で呼ばれる名物男となりました。
『いだてん』では、満島真之介さんが演じます。

吉岡信敬/wikipediaより引用

ちなみに「天狗倶楽部」のエールは、
【テング、テング、テンテング、テテンノグー♪ 奮え、奮え、天狗♪】
だそうです。
作中でも是非、再現していただきたいところ。

そして頭脳派のメンバーが中沢臨川(なかざわ りんせん)
工学博士であり、インテリでした。

豪快なバンカラタイプだけではなく、知能派の若者も在籍していたのが、「天狗倶楽部」なのです。
『いだてん』では、近藤公園(こんどう こうえん)さんが演じます。

中沢臨川/wikipediaより引用

 

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スポーツ振興にも大いに貢献する

「天狗倶楽部」は、日本初のスポーツクラブです。
そのためか、現在からすると活動範囲も広く、近代スポーツ黎明期において大変な影響力も持っていました。

メンバーの出入りは自由。
ともかくスポーツで盛り上がりたい若者ならば、即座に飛び込める魅力があったのです。

彼らの職業も様々で、アスリートのみならず、作家、ジャーナリスト、博士、公務員、はては学校長から僧侶まで、様々なものでした。スポーツを愛する闊達な心があれば入会できたわけで、門戸の広い大らかな団体でした。

しかも代表者の押川が執筆業に就いていたこともあり、スポーツジャーナリズムの黎明期を牽引した団体ともなります。
もっとも、そのせいで押川は新渡戸稲造相手に「野球害毒論」を巡って大論争を繰り広げ、そのため消耗し、失意のうちに最期を迎えることにはなるのですが……。

【関連記事】押川春浪

こうしたジャーナリズムだけではなく、天狗倶楽部は、スポーツ振興にも直接協力しました。

明治44年(1911年)、スウェーデンで開催される第5回ストックホルム国際オリンピック大会。
その日本代表選考会である「オリムピク大會予選競技会」が開催されたのは、日本初の本格的なスポーツ競技会場である「羽田運動場」です。
この建設に尽力したのが、中沢臨川です。

もともとは押川のスポーツ振興の情熱を受けて、中沢が立ち上がりました。

中沢は大学卒業後、京浜電鉄に技師長として勤めておりました。
当時の京浜電鉄は、現在の羽田空港のあたりに6万坪もの土地を所有しておりながら、しかし使用予定がありません。

そこで中沢が、押川と共に京浜電鉄経営者へ直談判。
なんとか説得して、1万坪をスポーツ競技場として整備できるよう説得したのです。

京浜電鉄側としてはただの慈善行為ではなく、スポーツ観戦を目的とした乗客増加を見込んでのことです。
現在ならば特にバッシングの対象ともなりませんが、当時は新聞にこう叩かれました。

「スポーツ振興とかいうけど結局金目当てだろ!」

それだけ当時は、スポーツが何かとバッシングされやすかったのでしょうね。
残念ながらこの競技場は、数年後の台風で冠水してしまい、使われなくなってしまいました。

とはいえ、日本初の五輪選考会会場であった歴史は残ったのです。

 

飛び入り参加の三島が五輪へ!

「天狗倶楽部」のメンバーであり、スポーツ万能で知られた三島弥彦は、この大会に当初審判として参加する予定でした。

しかし生来のスポーツ好きの血が疼いたのでしょう。
なんと、飛び入りで100メートル、400メートル、800メートル走に参加。並み居る選手を抑え、堂々優勝してしまったのです。

思いも寄らぬことながら、代表の切符を射止め三島は、長距離走の代表・金栗四三と並んで、日本初の五輪代表となりました。

初の日本代表として五輪の旗手を務める三島弥彦(1912年)/wikipediaより引用

その詳細は、関連記事の金栗四三や三島弥彦に掲載されておりますので、それぞれご覧いただければ幸いです。

【関連記事】金栗四三三島弥彦




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文:小檜山青

【参考文献】
熱血児 押川春浪―野球害毒論と新渡戸稲造』横田順彌
国史大辞典

 



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