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明治・大正・昭和時代

吉本興業の創業者・吉本せい 波乱の生涯60年をスッキリ解説!

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明石家さんまやダウンタウンなど、数多の人気芸人を輩出し、日本のお笑い界に君臨する吉本興業

その歴史が明治時代、一人の女性によって始められたことを皆さんご存知でしょうか?
って、今更何言ってんだ、という話ですかね。

2017年10月に放送されたNHK朝ドラ『わろてんか』。
その主人公・藤岡てんは、吉本興業の創立者・吉本せいさんをモデルにしたドラマです。

ドラマでは、快活で明るい女性像で描かれておりますが、わろてんかモデルとなった吉本せいさんは「ええとこのお嬢さん」どころか、若い頃から苦労に苦労を重ね、半ば行きがかり上で同社を担うことになり、数多の芸人を育ててきた強い女性でありました。

史実の吉本せいさんとは一体どんな人物だったのか?

その生涯60年をスッキリまとめてみました。(以下、敬称略)

 

12人きょうだいの三女として生まれ

1889年(明治22念)、せいは兵庫県明石市の米穀商・林家の三女として誕生しました。
家はさほど裕福ではなく、また12人きょうだいであったため、楽な暮らしぶりとは言えませんでした。

成績優秀なせいは、本心では学業を続けたかったものの、そんな贅沢をできるほどの経済的余裕はありません。
当時の義務教育である尋常小学校四年まで終えると、船場の実業家のもとに奉公に出されました。
これが当時の、平均以下の家庭事情でした。
朝ドラのヒロインは大抵当然のように女学校に通うものですが、彼女らの場合はかなり裕福な家のお嬢様なのです。

せいの奉公先は、倹約家でした。
倹約そのものは悪いことではありません。
ただし、度が過ぎるとまるで虐待じみてきます。
ここの主人は、奉公人や女中が食欲旺盛であると困るため、わざわざ雨水がかかる場所に漬け物樽を置き、悪臭を漂うようにしました。

あまりの仕打ちに耐えかねたせいは、ある日、こんな風に提案します。
「奉公人たちで集めたお金で生姜を買い、これを刻んで食事にかけたらどうか」
まことに天晴なアイデアですが、これが主人の耳に入ってしまい、せいはこっぴどく叱られてしまうのでした。

この逸話からは主人のドケチぶりだけではなく、せいの機転もうかがえます。

 

頼りない夫、働き者の妻

19才のころ、せいは吉本家の二男・吉次郎に嫁ぎました。
屋号を「箸吉」という老舗。
吉次郎は家を継ぐと当主の名を襲名し、吉兵衛と名乗るようになります。

しかし、当時は日露戦争後のバブルが崩壊した頃です。
どこもかしこも不景気であり「箸吉」もまた経営が傾いていました。

それを立て直そうと働くどころか、現実逃避する性質の吉兵衛。
彼は芸能を好み、遊んでばかりというどうしようもない男だったのです。

債権者が自宅まで押しかけると雲隠れしてせいに対応させ、債権者が帰ると「断り方がなっとらん!」とせいを叱り飛ばし、日本刀で脅したというのですから、本当にろくでもありません。
吉兵衛としては才気溢れるせいが、気弱な自分を見下しているように思えてイライラしたのかもしれませんが、古き日本家庭の闇を見るような話ではあります。

さらに、姑のいびりも酷いものでした。
この姑はユキといって、吉兵衛の母ではなく、吉兵衛の父の後妻でした。

ユキは里帰りから戻って来た新婚のせいの前に、盥(たらい)をデンと置きました。
中には、厚子(冬用の分厚い着物)が積み重ねられています。分厚い厚子を何枚も洗っていると、手の皮が剥け、血がにじんできます。盥の水は血で赤く染まりました。

食事の作り方や掃除から商売まで。何から何までネチネチと嫌味を言うユキ。
嫁と姑の問題は女性同士のこととされますが、間の夫が調停することはできるはずです。
しかし、吉兵衛は無関心でした。

吉兵衛は遊び呆けているだけならばまだマシです。
芸能好きが昂じて自分でも芸能興行をやってみようとして、騙されて家業を廃業にまで追い込んでしまいます。

せいはやむなく実家に身を寄せますが、実家でも父からこう言われてしまいます。

「見込みのない夫なら別れろ」
「嫁ぎ先から戻るのは、骨になってからにしろ」

どっちやねん! どうしろっちゅうねん!
そう突っ込みたくもなりますが、そんな矛盾したことを言われてしまうせいでした……。

せいは内職をしたり、働きに出て家計をなんとか支えようとしました。
彼女は子だくさんで、二男六女の母。しかし当時は乳幼児の死亡率が現代よりも格段に高いものです。
長男、長女、二女、四女は夭折してしまい、戸籍上は8人の母となっておりましたが、せい自身は10人以上の子がいたと語り残しているので、流産等もあった可能性があります。

時代が時代です。
子だくさんのせいが、汗水たらして働き、稼いだとしても焼け石の水だったでしょう。

 

「吉本興業部」の始まり

1912年(明治45年)、芸能好きが昂じた吉兵衛は、「第二文芸館」を買い取りました。
貧しい吉本家には買収資金もなく、せいが頭を下げて金策に周り、実家にまで助けを求めて、ようやくこぎつけたのでした。

この「第二文芸館」での寄席が、「吉本興業」の起こり。
買収の翌年には「吉本興行部」が発足します。

とはいえ、繁華街の天満には寄席が数多くあり、第二文芸館は最低ランクでした。
ここに客をできるだけ詰め込み、いかにして木戸銭=入場料を稼ぎ出すか。
それがせいの工夫です。

ともかく入場料が欲しいからには、客をぎゅうぎゅうに詰め込みます。
空調なんてありませんし、窓も閉め切ってムンムンとしています。
そうなると、客は「こりゃたまらんわ」と出て行ってしまいます。そうすると、結果的に客の回転が効率よくなると。

雨が降り出すと、雨宿りの客が押しかけます。
そうすると入場料の看板をかえて、いつもの倍取るわけです。

現代ならばクレーム殺到しそうな手段ではありますが、これは吉本夫妻だけではなく、当時の寄席はどこもそんなものだったのです。
こうした客を騙すような工夫では、立志伝としては面白くありません。

ここからが、せいの機転の発揮しどころです。

彼女は興行主であるにも関わらず、客席の整理や芸人の身支度を手伝いました。
こまごまとしたせいの気遣いに、芸人は感心するわけです。

「気の利くおばちゃんやなあ」

同じギャラをもらうなら、雇い主が親切な方がいいわけで。
せいの気遣いに感激した芸人たちは、芸の腕前を磨いてよりよいものを見せることで、恩返ししたのでした。
この辺の彼女の機転・気遣いは、山崎豊子さんの小説『花のれん』でも丁寧に描かれております。

 

物販でも一儲け

また、せいは考えました。
収入は入場料だけなのだろうか。

夏場、蒸し暑い中、客は汗を拭きながら寄席から外へ出て行きます。

『あんなに汗かいとったら、帰りに何か冷たいもんでも飲んでいかはるんやろなあ……』

と、そこでせいは気がつきます。
物販の可能性です。

思い立ったら行動が早いせいは、菓子屋で冷やし飴を仕入れました。

冷やし飴とは、いわゆる普通の“アメ”ではなく“飲み物”です。
お湯で溶いた水飴の中に生姜の搾り汁を加えたもので、関西圏(現在では他に広島県・高知県)で飲まれる夏のドリンクです(参考/日経新聞)。

せいは即席の店を寄席に併設すると、“氷で冷やした”冷やし飴を売り始めたのです。

しかも販売方法が一風変わっておりました。
普通は樽に入れて冷やすところを、彼女は氷の上に冷やし飴の瓶を置き、その上でゴロゴロ転がして売ったのです。

この瓶を転がすスタイルが受けて、道ゆく人は面白がって買い始めます。
はじめは寄席の客だけに売るつもりが、通行人にまで売れます。

ついには
「飴のついでに寄席でも見て行くか」
と、冷やし飴を買うために脚を止めた客が、寄席に寄っていくという効果まで!

物販の可能性に気づいたせいは、さらに工夫をします。
現在、舞台鑑賞の際は飲食禁止が一般的ですが、当時は寄席の席で何かしら食べるのは当たり前でした。
この食べ物の種類に見直しを加えたのです。

例えば、甘い物よりも、なるべく塩辛い物を売る。
そうすれば、喉が渇いて飲み物も売れるだろう、ということです。

更には冬場になると、客の食べ残した蜜柑の皮を拾い乾燥させ、漢方薬局に売ったというのですから、凄い工夫です。

一方で、自分で始めておきながら事業に余り身を入れない旦那の吉兵衛。
ボンクラな夫の横で積極的に商売に精を出し、更には芸人たちにも優しく配慮するせいの姿に感銘を受けました。

「あのおばちゃんのためにも、がんばらんとあかん!」

せいは創業当時から、吉本興業の屋台骨でした。

 

上方演芸界を席巻する

せいの涙ぐましく、かつ現代でも通用する物販の工夫は素晴らしいものがあります。

しかし、商売はそれだけで大きくなるものでもありません。

1915年(大正4年)、吉本興業部は多角経営していた複数の寄席を「花月」と改名しました。
例えば第二文芸館は「天満 花月」。

「花と咲きほこるか、月と陰るか、全てを賭けて」
そんな意味が込められたなかなか風流な名前でした。

当時、関西のお笑い界は、様々な派に分裂していました。
吉本興業部は、派閥に属さない落語家を集めて「花月派」を結成。さらには「浪花落語反対派」も吸収します。
これは「浪花の落語に反対する一派」ではなく、ひとつの派です。

寄席だけではなく、ものまねや義太夫、娘義太夫、剣舞、曲芸も含める派でした。

さらには三友派の中心となる「紅梅亭」を買収することで三友派までおさめ、1922年(大正10年)までには上方演芸界の帝王として君臨することになりいます。
このあたりの躍進は、仕事は熱心でなくとも芸人界に顔が利く吉兵衛の存在も大きかったことでしょう。

吉本興業部では、客を呼べる芸人にはポンと金を積み上げます。
するとそれを見ている芸人たちは、「吉本の御料さん(奥様)は気前のよい人やで」と自ら売り込みにやって来ます。
まさしくこれはせいの計算通りです。
こうして抱えた虎の子の芸人は、看板芸人としてドーンと派手に宣伝するわけです。

ちなみに、ある芸人の月給は五百円でした。
当時の中堅サラリーマンが四十円の時代ですから、いかに高給取りかご理解いただけるでしょう。

 

あの小僧、金勘定はわかっても、芸はちぃともわからへんで

1923年(大正12年)に関東大震災が起きたときも、吉本興業部はチャンスに変えました。

せいは復興のための救援物資を関東に送ります。
義援金だけではなく、寝具や食料といった今すぐ欲しいものを送るのがせいの才覚。気落ちしている関東の芸人をしっかりと支えたのです。

東京の芸人たちは、復興を待たずに大阪にやって来て寄席を始めました。
お笑いにも東西の違いはあるもので、彼らの芸は必ずしも関西の客に受けるものでもありませんでしたが、そこは「寄席を見て復興支援」ということもあるのでしょう。客入りは上々でした。

しかし、ここで試練がまたせいを襲います。
1924年(大正13年)、せいにとって最後の子である二男が生まれて間もなく、吉兵衛が亡くなったのです。
37才という働き盛り。幼い子を抱えて、せいは34才で未亡人となってしまったのでした。

せいは、実弟の正之助と弘高を呼び寄せ、吉本興業部を手伝わせることにします。

彼ら実弟は優秀であり、事業は順調に拡大を続けました。

弟が優秀というのは確かにそうではあるのですが、ただし、正之助は「金勘定は得意でも芸のことはわからない」人物でした。
吉兵衛は欠点だらけの男には思えますが、芸はわかるため落語家も一目置きます。
折衝も得意です。
しかし若く、芸能センスもない正之助は、落語家からナメられっぱなしでした。

「あの小僧、金勘定はわかっても、芸はちぃともわからへんで」

正之助は、玄人的なお笑いセンスよりも、わかりやすいものの方が好きだったのです。

それをマイナスどころかプラスに使ったのがせいの鋭い商売勘です。

センスのない正之助でも笑える芸ならば、万人受けするだろう、と弟の感覚をむしろ重宝しました。
その一方で憤懣やるかたない落語家たちの愚痴を聞いて、なだめる役割も果たしました。

もう一人の弟・弘高は兄とは違い、シビアな感覚よりもロマンチスト的な部分がありました。
兄弟はかなり性格が異なり、もし一緒に大阪で仕事をしたらば対立したのではないかと思われる部分もあります。
それを適材適所に配置するセンスもまた、せいは持ち合わせておりました。

人情の機微に敏感な方だったのでしょう。

 

時代は、わかりやすい笑いを求めている!?

明治から大正が終わり、昭和になろうというころ。
市民の生活も変わってきていました。

芸能だけが旧態依然としていては、変化に追いつけないのではないだろうか?

せいたちはそう考え始めます。
そんな時、正之助が万歳に目を付けます。ここから時代が変わっていくのです。
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