明治五年(1872年)10月4日、世界遺産になった富岡製糸場が操業を開始しました。
世界遺産に登録され大河ドラマ『青天を衝け』でも放送され、かなり良いイメージが先行しておりますが、かつては『女工哀史』や『ああ野麦峠』などの影響で、「女性を劣悪な環境で働かせていたブラック企業」というイメージもあったものです。
これは一体どういうことなのか?
当時の状況から考察してみましょう。
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フランスから紡績機を輸入して量産体制へ
開国したばかりの日本の大きな課題のひとつが、外貨を稼ぐこと。
軍を強化するにもインフラを整えるにも、先立つものはまず金です。
というわけで「西欧に素早く・たくさん・高品質で輸出できるもの」として挙げられたのがお茶と生糸(絹糸)でした。
中国(当時は清)と競合しなかったのが不思議ですが、この頃は既にアヘン戦争・アロー戦争でイギリスとフランスに負けてしまってボロボロです。
ちなみに、お茶については、大産地が中国ではなくセイロン(スリランカ)でした。
この頃のイギリス人は、緑茶と紅茶が元は同じ木だということがわかっていましたので、そこに目をつけたのかもしれません。
当時のイギリスは、自国が排水で汚染されていたため生水が飲めず、煮沸してさらに紅茶で殺菌しないと水分摂取すらろくにできなかったので、お茶は嗜好品ではなく必需品だったのです。
そりゃ血眼になって輸入するわけで。
話を戻しまして、生糸を紡ぐのはそれまで手作業でした。
が、輸出と国内需要の両方を満たすとなると、とてもそれでは追いつきません。
そこで明治政府はフランスから紡績機(糸を紡ぐ機械)を輸入し、フランス人の先生も雇って量産体制を整え、工場を作りました。
洋の東西問わず、糸紡ぎは女性の仕事でしたから、工場で働くのも当然女性。
力が要らないというのも大きかったでしょう。
実際の工場設立や人員確保には渋沢栄一のイトコだった尾高惇忠が尽力しています。
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ブラックどころかスペシャルホワイト
さて、いよいよ本題の労働条件です。
・勤務時間は一日平均8時間
・週一日は休みがあった
・寮完備
・食事は三食保証されていた
この他、寮の中には欧米からの香水や化粧品を売る店があり、ここで散財してしまった人もいたそうです……って、あれ?
悲劇のひの字もないぞ。
ただ、当時の女工・和田英さんが書いた『富岡日記』にもありますように、士族の娘などが必死になって頑張っていたことが工場の質を上げるのに貢献したようで。
時代がもう少し進むと、富岡製糸場で働いた女性が故郷へ戻り、今度は先生となって紡績機の使い方などを教えたそうです。
こうして生糸の生産量は飛躍的に増大し、日本のお財布は分厚くなっていくのでした。
それでも明治時代の間に西南戦争・日清戦争を経て、とどめに日露戦争でほぼすっからかんになってしまうんですが、まあそれは別のお話ですね。
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ではなぜ、富岡製糸場は「悪の代名詞」のような扱いをされてしまったのでしょう?
経営権が三井財閥へ移ってからがヤバい
当初は官営で超ホワイトな企業運営のため、女工たちは準公務員あつかいでした。
しかし、コスト観念が甘かったせいか、経営は悪化。
8年後には事実上の経営破綻となって売りに出されるのです。
民間企業にとって、上記のような労働環境はあまりにホワイトすぎたのでしょう。なかなか買い手がつきません。
そして売り出しから13年も経過して手を挙げたのが三井家でした。
新経営陣は、儲けがでるように経営効率化を推し進め、働き手からすればブラック化します。
のちに映画その他で、以下のような極悪な労働条件であったといわれるのですが、さてその内容とは?
・一日十数時間以上も働かされるブラック企業ぶり
・食事は15分で済ませなければならなかった
・一応白米は出されたが、あとは漬物や肥料用のいわしだけ
・寮はあるが、数時間眠りに行くのみ
・逃げ出そうとすると体罰を受ける
・あまりの過酷さに死者が続出
今なら確実に人権問題ですが、果たして真実はどうだったのでしょう?
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