明治・大正・昭和時代

竹鶴政孝(マッサン)とリタ、史実の生涯は?ウィスキー作りに命を賭した夫婦

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時は大正時代。
日本で【ウイスキー】といえば、模造品ばかりだったころ。

摂津酒造の社長・阿部喜兵衛は折から募らせていた危機感を払拭すべく、1918年(大正7年)、あるアイデアを自社の若者に向けて打診しました。

「竹鶴君、本場のスコットランドでウイスキー作りを学んでみんか?」

竹鶴君とは、朝ドラで主役となったマッサン。
こと竹鶴政孝です。

この日から、彼の熱意と尋常ならざる努力でもって、ジャパニーズウイスキーの研究が進み、現在では【世界五大ウィスキー】の一つに数えられるまでになっています。

本稿では、竹鶴政孝とその妻・リタの生涯を辿ってみましょう。

 

広島の酒蔵に生まれる

明治27年(1894年)、広島。
「竹鶴酒造」の三男として、政孝は生まれました。

兄弟は全部で四男五女の大所帯です。

そこで竹鶴は、厳格な職人である父・竹鶴敬次郎からものづくりの情熱や真髄を学びました。

竹鶴酒造/photo by K.F. wikipediaより引用

実は、広島の水は軟水であり、酒造りには向いていません。

敬次郎はその欠点を克服し、見事な酒作りを成功させた努力の人。
これが息子の竹鶴になると『学』という強力な味方も身に着けます。

竹鶴は若い頃から学業優秀で、大阪高等工業学校(後の旧制大阪工業大学・現在の大阪大学工学部)を卒業。
ウィスキー工場を学び、そして運転させる基礎知識を身に着け、さらには摂津酒造の中でも、腕のいい若手技士として注目を集めておりました。

摂津酒造は、壽屋(現サントリー)の依頼で赤玉ワインを作っていました。

製造工程の中で殺菌が不十分だと、ボトルは発酵して破裂してしまいます。
竹鶴が担当したボトルは決してそうならず、周囲から「腕がいい」と感心されていました。

こうした地道な作業をこなす能力に加えて、好奇心旺盛かつ気の強い性格。

ジャパニーズウィスキーをゼロから作る――そんな新たな挑戦にはうってつけの人物でしょう。

彼には、幸運も味方しました。
一度は徴兵検査を受けたものの、アルコール製造ができる技師であることから徴兵を免れているのです。

そして1918年(大正7年)。
神戸港で大勢の人に見送られながら、竹鶴はスコットランドへ向かうのでした。

 

スコットランドでの修行

竹鶴はグラスゴー大学に籍を置きました。

しかし、そこでウイスキー作りを学ぶことはできません。
専門講座がなかったのです。

19世紀末のグラスゴー大学/wikipediaより引用

大学で、ウィルソン教授からJ.Aネトルトン著の
”The Manufacture of Whisky and Plain Spirit“(『ウイスキー並びに酒精製造法』)
という本を薦めてもらうことはできました。

が、実地で学べなければ意味がない。
造り酒屋で生まれ育った竹鶴は、実地体験こそが生きた知識になることを誰よりも痛感しておりました。

そこで著者のネトルトンに頼みこんでみたものの、授業料があまりに高額すぎて断念。
次に、片っ端から蒸留所へ手紙を送り続け、各工場を訪ね歩きました。

と、ホワイトホース社のヘーゼルバーン蒸留所で、見習いとして働くことができるようになります。
1920年(大正9年)のことでした。

ホワイトホース社・グレンエルギン蒸留所(竹鶴が働いた場所とは異なります)/photo by Andrew Wood wikipediaより引用

「よく来ましたね。グラスゴー大学から話は聞いています。あなたの鼻は立派だから、ウイスキー作りにゃあ向いてますよ」

工場長は握手のために手を差しだしました。
確かに竹鶴の鼻は大きかったのです。

竹鶴は白衣のポケットにノートとペンを持ち歩き、熱心に働きました。

例えば蒸留器の清掃作業は誰からも嫌われるものでしたが、洗いながら構造を覚えるため、進んで作業に取り組みます。
そんな姿を見て、周囲も段々と彼の情熱を認めるようになります。

あるとき、老職工が竹鶴に語りかけてきました。

「おめえさん、故郷でウイスキー作る気だど聞いたけんども」
「はい、なんとしても日本でウイスキーを作りたいのです」
「たいしたもんだなあ。おれのやり方よく見てろ。蒸留器はこう動かすんだ」

グレンフィディック蒸溜所の単式蒸留器/photo by Colin Smith wikipediaより引用

3ヶ月間の見習い期間、竹鶴は常にノートを取っていました。

上司の岩井喜一郎に報告するためのノートであり、
「竹鶴実習ノート」
あるいは単に
「竹鶴ノート」と呼ばれております。

この一冊が、日本のウイスキー誕生に欠かせないものでした。

 

リタとの出会い

ウイスキー作りを学ぶ一方、竹鶴にはもうひとつの大切な出会いがありました。

1896年、スコットランド南西部の都市・グラスゴーの医師カウン家で、ジェシー・ロベルタ、通称リタは誕生しました。

一家は両親と妹2人、弟1人。
彼女の年齢は、竹鶴の2才年下にあたります。

リタの故郷(グラスゴー郊外のイースト・ダンバートンシャー カーキンティロック)/photo by StaraBlazkova wikipediaより引用

実は、成長したリタは、親の勧めでとある青年と交際し、婚約までしていました。

が、その青年は、第一次世界大戦で戦死。
婚約者を失い失意のリタの家に、妹のエラが大学で知り合ったという珍しい客人を連れて来ました。

「日本から来たミスター・タケツルよ。ラムジーに柔道を教えてもらうの」

竹鶴は中学時代、柔道部に所属しており、なかなかの腕前。
当時のスコットランドでも大人気であったシャーロック・ホームズの特技は、柔術がモデルとなった「バリツ」です。

ヨーロッパ人にとって、東洋の神秘的な格闘技は憧れの目で見られていたのでした。
エラが、弟のラムジーに習わせたいと思ったとしても、何の不思議はありません。

ハイ・ティーを楽しむ間、竹鶴は初めて出会ったリタに心ひかれていました。
一目惚れです。

竹鶴は柔道だけではなく、鼓も出来ました。
ピアノが趣味であるリタと合奏することもありました。

こうして二人は徐々に惹かれていったのでしょうか、次第に親しくなっていきます。

 

運命のクリスマスプディング

竹鶴は、カウン家の大事な客として交流することになりました。

1919年(大正18年)のクリスマス。
クリスマスプディングを食べることにしました。

いわゆるプリンではなく、イメージとしてはクリスマスケーキに近いものです。

クリスマスプディング/photo by Musical Linguist wikipediaより引用

竹鶴とリタは、途中で堅いものが中に入っていることに気がつきました。

竹鶴は銀貨。
リタは指ぬき。

周囲の人々は驚きました。

「すごい! 独身の男性が銀貨、女性が指ぬきをあてると、二人は結婚するんだよ!」
さぞかし驚いたことでしょう。
このプディングがきっかけかどうかはともかくとして、二人の中は急速に接近してゆきます。

そしてある日、ついに竹鶴はプロポーズします。

「リタ、ぼくと結婚して欲しい。きみと結婚するために、このスコットランドに残ってもいい」
「駄目。あなたには、日本でウイスキーを作る大きな夢がある。それをあきらめたらいけません。二人で日本に行きましょう」
リタはそう答えました。

もちろん当時は国際結婚など超少数派の時代。
周囲の反対を避けるため、二人は1920年(大正9年)1月に登記所で略式結婚をしました。

ちなみにクリスマスプディングは、リタの得意料理でもありまして。
来日後もよく作り、竹鶴家でも人気の味でした。

ただし……。

結婚を知らせる手紙を受け取った竹鶴の実家は、大騒ぎ。
跡取り息子がウイスキーを作ろうとしていることにも反対だったのに、結婚までしたのですから、大変なことです。

両親は、嫁候補なら大勢いる、見合い写真を送る、と伝えたものの、竹鶴は突っぱねます。

やむなく摂津酒造の阿部社長がスコットランドへ向かいます。
阿部の判断に従う――と竹鶴の両親は折れたのです。

阿部はリタのことを気に入り、これならばと安心しました。
カウン家の人々も態度を軟化させており、竹鶴夫妻は簡単な結婚式をあげることもできました。

 

帰国、そしてウイスキー作りへ

かくして、新婚の竹鶴夫妻は日本に帰国しました。
「まさか、スコットランドから嫁さんまで貰ってくるとは……」

周囲の人々は唖然としました。
声高に反対するというよりも、一体どうしたらよいのかわからない、困惑といった反応です。

一方で、
「いや、むしろ竹鶴君は素晴らしい。これからは国際化の時代だ、率先して国際結婚とはえらいことだ」
という反応もありました。

気になるのは竹鶴の母・チョウではないでしょうか?
ドラマ『マッサン』では、泉ピン子さんがとんでもなく嫌味でイジメ連発の母親として描かれております。

が、それはあくまでフィクション。
史実のチョウは、おっとりとした心優しいの女性。はじめこそ反対したものの、やがて息子夫妻の結婚を受け入れています。

愛妻家の竹鶴は、帝塚山に瀟洒な洋館を用意し、そこで新婚生活を始めることにしました。
できるだけ生活様式を西洋風にして、妻の負担が少なくなるよう気を遣っていたのです。

例えば和式便器。
リタにとっては到底なじめないものです。
洋式トイレとイギリス式暖炉と煙突のついた洋館に、夫妻は落ち着きました。

竹鶴夫妻が英国流のアフターヌーンティーを飲んでいると、周囲から「お高くとまっている」等と言われることもありました。
夫として精一杯リタに気を遣っていただけです。
彼女にプレゼントをするときは、一筆添え、料理のことも常日頃から丁寧に褒めました。

互いに尊敬し合い、気遣う。そんな理想の夫婦でした。

リタも、日本という国に溶け込もうと努力を重ねました。
竹鶴は晩酌には日本酒を好んだため、日本料理、漬け物、塩辛の作り方を覚え、酒に合うつまみを何品も作りました。

しかし、竹鶴の夢は思わぬ暗礁にのりあげます。
第一次世界大戦後の不況のため、摂津酒造ではウイスキーどころではなくなったのです。

竹鶴は辞職し、化学教師として教鞭をとりました。
このときはリタも英語教師・英会話・ピアノ教師教師として働いています。

しかしこの生活も、程なくして終わりを迎えます。

洋酒製造販売業者・壽屋(現在サントリー)社長の鳥居信治郎から、三顧の礼をもって迎えられたのです。

いよいよ、ジャパニーズウイスキー誕生へ向けて、物語は大きく動き始めたのでした。

 

妥協のないウイスキー作りを求めて

竹鶴が壽屋で働き始めた1924年(大正13年)、夫妻には悲しい出来事が起こりました。
リタが妊娠したものの、流産してしまったのです。

妻の傷心を癒すためか、翌年二人はスコットランドに帰郷しています。

夫妻は1930年(昭和5年)には山口広治・シゲ夫妻の子供である房子を養子に迎えています。
このとき、リタと政孝の頭文字をとり「リマ」と改名させました。

ただし残念なことに、夫妻と養女リマの折り合いは悪く、余市に移った後に家出をしてしまいます。

壽屋でのウイスキー事業も、なかなかうまくいきません。

技術の問題もあるのでしょうが、そもそも熟成を待つだけの期間が不足しており、竹鶴が手がけた商品は軒並み失敗してしまうのです。

竹鶴は、ウィスキーからビール製造部門へ異動となりました。
が、同部門を彼の承認なしに売却されたこともあり、徐々に不満を感じるように……。

竹鶴の元では、壽屋の後継者である鳥井吉太郎はじめ、若い技師たちも育っていました。

『そろそろ、妥協のないウイスキー作りに挑むべきかもしれない』
そう確信した竹鶴は、壽屋を円満退社し、北海道への移住を決めました。

北海道は、地形も、風景も、気候も、リタの故郷であるスコットランドに似ています。
ウイスキーにとっても、愛妻リタにとっても、素晴らしい土地だったのです。

余市の眺め/photo by heriheri wikipediaより引用

 

スモーキーフレーバーを求めて

北海道でウイスキーを作ることは、竹鶴の悲願でした。
壽屋時代、蒸留所候補地として北海道をすすめたものの、輸送コストや工場見学が難しいことから、反対されていたのです。

寒冷な気候のみならず、ウイスキー作りにはぴったりの土地。
というのも「ピート」(泥炭)を採取できたのです。

ピートとは、枯死した湿地植物などが炭化した石炭のことです。
水分が多く燃焼効率が悪いため、使いにくく価値が低いものでした。

これがどうしてウイスキー作りに使われるようになったかというと、まったくの偶然です。というのも……。
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