ベルリンでの川上貞奴/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

日本初の女優・川上貞奴~ピカソやロダンさらには総理大臣も魅了した

明治時代というと、かなり昔のことだと感じるかもしれません。

しかし実はたった1世紀前の話。

国内に100歳以上の方がたくさんいることからしても、意外に近い時代なんですよね。

特に昭和を生き抜いた人からすれば、まさにお父さんお母さんの世代なわけで。

今回の主役は、その明治・大正・昭和を生き抜いたとある女優であり女傑ともいえる人です。

昭和二十一年(1946年)12月7日、日本初の女優・川上貞奴(さだやっこ)が亡くなりました。

彼女は歴史を動かした女性とも言え、数々の事件がなければ、日本に女優という職業が生まれるのもかなり遅くなったかもしれません。

その波乱万丈な生涯を振り返ってみましょう。

※文中の記事リンクは文末にもございます

 

サンフランシスコで突然舞台に立たされる

彼女の本名は「貞」。
某テレビ画面から出てくる怨霊のインパクトが強すぎるせいで、この字を見るとゾッとする人もいるかもしれませんがご容赦ください。

元は東京・日本橋の質屋の娘さんだったのですが、実家の経済状態が危うくなったため、当時花町として知られていた芳町(現在の日本橋人形町あたり)の芸者置屋の養女になりました。

口減らしといえばそれまでながら、売られたわけではなく養女としてだったことがまず幸運でした。

貞は持って生まれた気の強さと才能でめきめきと日舞などの芸を身につけ、たちまち評判の芸者となります。

そのスゴさは芸者好きで目の肥えている伊藤博文や西園寺公望もごひいきにするほど。

特に伊藤は、貞が「奴」(やっこ。芳町で一番の芸者が受け継ぐ名前)を襲名するときにもスポンサーになっていたりして、かなりのお気に入りだったそうです。

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23歳のとき川上音二郎という青年と結婚して身を落ち着けた……かと思いきや、彼女の人生における本編はここから始まります。

川上貞奴と川上音二郎/wikipediaより引用

川上は一座を率いており、明治三十二年(1899年)にアメリカで興行をすることになったため貞奴もついていきました。

そこまではよかったのですが、なんと渡航先のサンフランシスコで女形が突如死んでしまったのです。

慣れない気候のためか旅の疲れでもあったでしょうか。

一説には、アメリカ側の興行主から「男が女役やる?ハァ?ナメてんの??」と拒否されたともいわれていますがどっちだったのやら。

当時の日本では芝居は男がやるものとされていて、女性が舞台に立つことは許されていませんでした。

しかし、女役がいなくては芝居が成り立ちません。

そこで「ここは日本じゃないから大丈夫!」と、貞奴が急遽舞台に立ったのです。

元々人前で芸をしていたのですから、舞台度胸は据わっていたでしょうしね。

 

カネを盗まれ鬼気迫る演技がウケた?

サンフランシスコでの舞台は無事に終わり、一行が胸を撫で下ろしたのもつかの間、次の事件が起こります。

なんと、何者かが興行資金を全部持ち逃げしてしまったのです。

興行どころか食費にも困った一座は餓死寸前の状況にまで陥りますが、何とか次の興行先・シカゴへたどり着きました。

現在でもサンフランシスコからシカゴまでは、距離にして2315マイル(約3724キロ)、有料道路を使っても車で33時間かかります。

まだ旅客機はなく、自動車は開発されていたものの普及したとは言えない時代です。

となると馬か馬車かということになるのでしょうが、資金のなくなった一行が果たして借りられたかどうか……?

異国の地ではお金を借りるアテもなかったでしょうし、生き延びたのが不思議なほどの旅路と言わざるをえません。

舞台衣装を身にまとった貞奴/wikipediaより引用

が、結果的にはこれが貞奴の人生を決めました。

というのも、飢餓状態によってさらに鬼気迫る演技ができたことにより、観客が「ブラボー!!!!」と惜しみないスタンディングオベーションを贈ってくれたのです。

倒れるシーンが特に良かったそうなので、実は空腹のせいで本当に倒れてしまっただけだったとか?

この名演技(※ガチ)が評判となり、あっという間に貞奴は欧米で有名人となります。

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