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【川上貞奴】
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ロダンからの彫刻モデル依頼を無碍に却下
翌年、一座はロンドンで興行した後、ちょうど開催されていたパリ万博の端にあった劇場で公演を行います。
これがまた大ヒット。
音楽家ドビュッシーや画家ピカソ、彫刻家ロダン(「考える人」の作者)まで、さまざまな芸術家が貞奴に魅了されたといいます。
特にロダンはベタ惚れしてしまったのか、「ぜひあなたの彫刻を作らせてください!!」と申し出たそうです。
しかし、貞奴はロダンがすごい人だということを知らなかったため、あっさり断ってしまったという笑えないエピソードがあります。
もしここで彫刻が作られていたら、どんな作品になっていたんでしょうね。
ところが、です。
帰国した彼女に対して日本のマスコミは冷たい反応でした。
当初こそ「本邦初の女優!」としてチヤホヤしますが、川上が亡くなった後は見事に手のひらを返しバッシングの嵐。
旦那さんの遺志を継いで興行を頑張る貞奴に対し、「女が出しゃばるな」「そもそも役者は男がやるもの、女は座敷で芸をやってろ」というような攻(口)撃が雨あられと降り注ぎます。
なんだか、やってることが今も100年前も変わっていない気がしますが。
帝国女優養成所を設立し40才で引退す
こうして貞奴はちょうど40歳になった明治四十四年(1911年)に大々的な引退興行をし、文字通り表舞台から身を引きました。
その後は若い頃諸事情で別れてしまった福澤桃介という人物と老いらくの恋を楽しみ、静かな余生を送っていたようです。
しかし彼女の引退で女優という存在が消えることはなく、引退前に彼女が創立した帝国女優養成所は、数々の財界人から援助を得て多くの女優を生み出していきます。
そして大正三年(1914年)には宝塚歌劇団が創設され、歌舞伎とは逆に女性が男役も演じるという形態が誕生し、女優という存在がメジャーになっていったのです。
今ではあまり名前が語られることのない貞奴ですが、まさにドラマのようなその半生は一度大河ドラマになっています。
『春の波濤(はとう)』という作品です。
松坂慶子さんが貞奴を演じていたので、ご記憶の方もおられるかもしれませんね。
諸般の事情でまだソフト化されておらず、また現在大河のセオリーとなっている主人公の最期までは描いていないそうなので、リメイクされてもいいんじゃないかと思うんですがどうでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
川上貞奴/wikipedia