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ウィスキー作りに命を賭けた竹鶴政孝(マッサン)とリタ 史実の生涯は?

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竹鶴政孝(マッサン)とリタ
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運命のクリスマスプディング

竹鶴は、カウン家の大事な客として交流することになりました。

1919年(大正18年)のクリスマス。

クリスマスプディングを食べることにしました。

いわゆるプリンではなく、イメージとしてはクリスマスケーキに近いものです。

クリスマスプディング/photo by Musical Linguist wikipediaより引用

竹鶴とリタは、途中で堅いものが中に入っていることに気がつきました。

竹鶴は銀貨。
リタは指ぬき。

周囲の人々は驚きました。

「すごい! 独身の男性が銀貨、女性が指ぬきをあてると、二人は結婚するんだよ!」

さぞかし驚いたことでしょう。

このプディングがきっかけかどうかはともかくとして、二人の中は急速に接近してゆきます。

そしてある日、ついに竹鶴はプロポーズします。

「リタ、ぼくと結婚して欲しい。きみと結婚するために、このスコットランドに残ってもいい」

「駄目。あなたには、日本でウイスキーを作る大きな夢がある。それをあきらめたらいけません。二人で日本に行きましょう」

リタはそう答えました。

もちろん当時は国際結婚など超少数派の時代。

周囲の反対を避けるため、二人は1920年(大正9年)1月に登記所で略式結婚をしました。

ちなみにクリスマスプディングは、リタの得意料理でもありまして。

来日後もよく作り、竹鶴家でも人気の味でした。

ただし……。

結婚を知らせる手紙を受け取った竹鶴の実家は、大騒ぎ。

跡取り息子がウイスキーを作ろうとしていることにも反対だったのに、結婚までしたのですから、大変なことです。

両親は、嫁候補なら大勢いる、見合い写真を送る、と伝えたものの、竹鶴は突っぱねます。

やむなく摂津酒造の阿部社長がスコットランドへ向かいます。阿部の判断に従う――と竹鶴の両親は折れたのです。

阿部はリタのことを気に入り、これならばと安心しました。

カウン家の人々も態度を軟化させており、竹鶴夫妻は簡単な結婚式をあげることもできました。

 

帰国、そしてウイスキー作りへ

かくして、新婚の竹鶴夫妻は日本に帰国しました。

「まさか、スコットランドから嫁さんまで貰ってくるとは……」

周囲の人々は唖然としました。

声高に反対するというよりも、一体どうしたらよいのかわからない、困惑といった反応です。

一方で「いや、むしろ竹鶴君は素晴らしい。これからは国際化の時代だ、率先して国際結婚とはえらいことだ」という反応もありました。

気になるのは竹鶴の母・チョウではないでしょうか?

ドラマ『マッサン』では、泉ピン子さんがとんでもなく嫌味でイジメ連発の母親として描かれております。

が、それはあくまでフィクション。

史実のチョウは、おっとりとした心優しいの女性。はじめこそ反対したものの、やがて息子夫妻の結婚を受け入れています。

愛妻家の竹鶴は、帝塚山に瀟洒な洋館を用意し、そこで新婚生活を始めることにしました。

できるだけ生活様式を西洋風にして、妻の負担が少なくなるよう気を遣っていたのです。

例えば和式便器。

リタにとっては到底なじめないものです。

洋式トイレとイギリス式暖炉と煙突のついた洋館に、夫妻は落ち着きました。

竹鶴夫妻が英国流のアフターヌーンティーを飲んでいると、周囲から「お高くとまっている」等と言われることもありました。

夫として精一杯リタに気を遣っていただけです。

彼女にプレゼントをするときは、一筆添え、料理のことも常日頃から丁寧に褒めました。

互いに尊敬し合い、気遣う。そんな理想の夫婦でした。

リタも、日本という国に溶け込もうと努力を重ねました。

竹鶴は晩酌には日本酒を好んだため、日本料理、漬け物、塩辛の作り方を覚え、酒に合うつまみを何品も作りました。

しかし、竹鶴の夢は思わぬ暗礁にのりあげます。

第一次世界大戦後の不況のため、摂津酒造ではウイスキーどころではなくなったのです。

竹鶴は辞職し、化学教師として教鞭をとりました。

このときはリタも英語教師・英会話・ピアノ教師教師として働いています。

しかしこの生活も、程なくして終わりを迎えます。

洋酒製造販売業者・壽屋(現在サントリー)社長の鳥居信治郎から、三顧の礼をもって迎えられたのです。

いよいよ、ジャパニーズウイスキー誕生へ向けて、物語は大きく動き始めたのでした。

 

妥協のないウイスキー作りを求めて

竹鶴が壽屋で働き始めた1924年(大正13年)、夫妻には悲しい出来事が起こりました。

リタが妊娠したものの、流産してしまったのです。

妻の傷心を癒すためか、翌年二人はスコットランドに帰郷しています。

夫妻は1930年(昭和5年)には山口広治・シゲ夫妻の子供である房子を養子に迎えています。

このとき、リタと政孝の頭文字をとり「リマ」と改名させました。

ただし残念なことに、夫妻と養女リマの折り合いは悪く、余市に移った後に家出をしてしまいます。

壽屋でのウイスキー事業も、なかなかうまくいきません。

技術の問題もあるのでしょうが、そもそも熟成を待つだけの期間が不足しており、竹鶴が手がけた商品は軒並み失敗してしまうのです。

竹鶴は、ウィスキーからビール製造部門へ異動となりました。

が、同部門を彼の承認なしに売却されたこともあり、徐々に不満を感じるように……。

竹鶴の元では、壽屋の後継者である鳥井吉太郎はじめ、若い技師たちも育っていました。

『そろそろ、妥協のないウイスキー作りに挑むべきかもしれない』

そう確信した竹鶴は、壽屋を円満退社し、北海道への移住を決めました。

余市の眺め/photo by heriheri wikipediaより引用

北海道は、地形も、風景も、気候も、リタの故郷であるスコットランドに似ています。

ウイスキーにとっても、愛妻リタにとっても、素晴らしい土地だったのです。

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