北里柴三郎

北里柴三郎/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

東大とバトルし女性関係も激しい北里柴三郎~肥後もっこす78年の生涯

2024年7月からの新紙幣1千円札の顔に決まった北里柴三郎

彼にとっては、弟子である野口英世と交替するかたちです。

貧家に生まれ、左手に障害を負いながらも、母はじめ周囲の愛を受けた野口。

アメリカで国際結婚し、異国の地で黄熱病に倒れた最期といい、彼の人生は劇的でした。

しかし、業績となると、実は野口のものは、現在では否定されるものも多い。

一方、その点では、北里の方が勝るとされていますが、なのになぜ、伝記では圧倒的に野口に人気があるのでしょうか?

答えは、北里柴三郎の生涯そのものにあります。

嘉永5年(1853年)12月20日という、混乱ど真ん中の幕末に生誕。

その後、医師として出世してからは東大派閥と激しくバトルしたばかりか、自身の女性関係スキャンダルをメディアに取り上げられ――品行方正とは言い難いながらも、一方で信義に篤かった、北里柴三郎の人生を振り返ってみましょう。

 


阿蘇国・北里に生まれる

時は黒船来航前夜の嘉永5年末(1853年)。

阿蘇国の小郷郡北里村庄屋・北里家にて、一人の男児が誕生しました。

父は惟信、母は貞。四男五女のうち長男です。

このうち男二女一は夭折しています。

父方は総庄屋、母方は久留間藩士・加藤家となります。

家老に次ぐという名門の家に生まれた母は気の強い女性で、西南戦争では家にやってきた兵士に一歩も引かなかったとか。

父方は先祖をたどると、清和源氏がルーツの郷士です。

清和源氏までさかのぼれる。母も、武士の娘として気丈。

そうした生まれから、北里柴三郎は「肥後もっこす」として、武芸をおさめようとしていた頃もあるほどでした。

しかし、両親はそのことを望みません。

これからはむしろ知能の時代。そう考えたのでしょうか。それとも聡明さを見抜いていたのか。

そう考えた両親は、安政5年(1858年)に寺子屋に我が子を入れます。

8歳になると、父方の伯母が嫁いだ橋下淵泉の家に預けられ、その父である漢方医・龍雲から四書五経を習います。

学問を究めるまで、家に戻るな。母はそうきつく我が子に言いつけました。

そのため、彼はほぼ北里家に戻ることなく、ひたすら学問を続けることになります。

この年は「安政の大獄」前夜でした。

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日本には、海を越えた脅威が迫っておりました。

黒船ではありません。

コレラです。

人の行き来が急増した幕末とは、パンデミック到来の時代でもあります。

北里家の幼い子供たちニ男一女も、この歳に立て続けに亡くなっているのです。

 


「肥後もっこす」の進路選択

慶応2年(1866年)、熊本に遊学し細川藩士子弟と学んだ際には、武芸に熱がこもりすぎたようです。

北里柴三郎には、学者としてのイメージがあるかもしれません。

しかし、彼は誇り高き熱血肥後もっこすでした。

最先端の流行を、敏感に追いかけたい。

武芸を鍛錬し、武士になりたい。

政治家になって、世の中を動かしたい!

そういう出世欲があったことも、なかなか重要です。

気も強く、彼はその人生において、衝突が多い人物でもありました。

明治2年(1869年)、北里は念願の細川藩校・時習館に入学しています。

が、明治政府によりこの藩校は閉鎖されてしまい、迎えた新時代。

北里柴三郎の進路には、いくつかルートがありました。

◆1 士族への道

士族として、熊本の仲間と新政府に悲憤慷慨する。

もしこの道を選べば「神風連の乱」でバッドエンドルートだったかもしれません。

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◆2 陸軍兵学寮に入って軍人だ!

本人は当初、それを望んでいました

◆3 故郷で塾の先生にでもなってくれ

これが両親の希望です。

両親の考えから、逆に息子の性格も見えてきます。

熱い肥後もっこすだったのでしょう。きっと士族にせよ、軍人にせよ、知勇兼備の者として出世できたと思われます。

ただ、激情にかられ、高慢なところもある――親としては、不安になっても仕方ありません。

そんな折、当時の藩主・細川護久は「再春館」を再構築して、西洋医学の講習所を開こうとしていました。

医者であれば、まずは安心ではないのか。両親はそう勧めてみます。

しかし、息子は一蹴。

「医者と坊主は、一人前の男児が為すべき仕事ではない!」

天下国家のために、知友を磨いてきたのに、医者なんてとんでもない。

これは江戸時代以前からの、伝統的な思考でしょう。

当時は現在とは異なり、医者は特に尊敬を集める職業ではありませんでした。

このあと短い書生生活を経て、北里柴三郎は両親の希望通り医学を目指します。

このあたりも、野口英世との違いですね。

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物語にするとして、どちらが劇的かと言われたら?

そりゃあ、左手手術に感激した野口英世となりましょう。

 


熊本から東京へ、医学へと進む

本人にとっては不本意であった、医学の道。

明治4年(1871年)、熊本にある古城医学校(のちの熊本医学校)に北里柴三郎は進学しました。

熊本では「神風連の乱」という混乱も起きますが、北里は巻き込まれておりません。

学校では、長崎から招かれたオランダ人海軍軍医・マンスフェルトが指導にあたっていました。

マンスフェルトは、北里柴三郎の聡明さと語学力を見出します。

もしも進学が数年ズレていたら、北里は漢方医として修行を積んでいたかもしれませんし、マンスフェルトとの出逢いもなかったかもしれません。

幸運な偶然を経て、北里は医学へ踏み出しました。マンスフェルトは北里柴三郎を通訳とし、医学の魅力を教え込んだことでしょう。

そんなマンスフェルトの任期が切れた後の、明治7年(1874年)夏。北里柴三郎は母の握った握り飯を持ち、故郷を出立します。

現代ならば上京したとひとことで済むですが、当時の交通状況です。

大阪はじめ、途中の経路で住み込み書生をして路銀を稼ぎ、やっとの思いで首都を目指しました。

実はこのとき北里柴三郎は、明治政府の定めた年齢制限を3歳オーバーしていました。

そこをなんとかしまして、明治8年(1875年)東京医学校本科学生となります

東京医学校は、安政5年(1858年)設立の「種痘館」を起源とする医学校でした。熊本から、日本最高峰の医学校に入学したわけです。

ここで考えたいことがあります。

授業の大半はドイツ語でした。英語もそこに混ざります。

勝海舟福沢諭吉も、語学に苦しみました。

せっかく学んだオランダ語が時代遅れになってしまったのです。

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医学となると、ドイツ語が加わります。

この慣習は日本で長く残り、かつてはドイツ語でカルテを記載することが、慣習としてあったほどです。

そんな学生生活で色々なことがありました。

・誰かがランプで読書して倒れる

→火災発生、逃げろと知らせる北里柴三郎。

・寮監の態度がでかい!

→馬に乗っているところを襲撃して懲らしめよう! とノリノリの北里。危険を察知したのか、寮監が態度を改善して未遂に。

・バンカラの時代だ!

→結社だ、行事だ、そうなるといつも先頭にいたのが北里柴三郎です。

バンカラといえば、スポーツ結社のこちらですね。

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・シュルツェとの確執

→頭痛に悩まされ、イライラしていたこの教師に反発していたそうです。

・後のライバル青山胤通との出会い

→なにかと対立することになるライバルは、このとき出会っておりました。

苦学生として牛乳配達に励んだという話もあります。

まさに肥後もっこす――それが北里柴三郎でした。

卒業時の成績が不振で、学校に残れなかったという説もありますが、そうなのでしょうか。

入学者:121
卒業試験合格者:26
北里卒業順位:8

そこまで悪くはありません。優秀です。

ただし、同級生からは「中程度の成績。ずば抜けていない」という証言が残されています。

実際に、成績表でずば抜けているものは、眼科のみ。あとはそれなりであったそうです。

実はこれ、ナポレオンもそうでした。

士官学校でさぞかし優秀だったのだろうと思われがちですが、そうでもない。優秀さとは、学校の成績だけが判断材料ではありません。

成績抜群というよりも、むしろ熱血、そして大それた行動力が北里にはありました。

嘉納治五郎よりも、生来の気質としては喧嘩上等であったのかもしれませんね。

さすがに肉弾戦はないものの、北里柴三郎は喧嘩上等人生を歩むことになります。

 

黎明期の細菌学を学ぶべく、ドイツ留学へ

卒業後、医学士となった北里。定番ルートは、地方の赴任です。

医者が尊敬されなかったという時代も、もはや終わりました。

西洋医学を学んだ医学士となれば引く手数多です。

しかし、それでは終われない。

国家の医学的向上を目指すべく、北里柴三郎は明治16年(1883年)、内務省衛生局に入り、局長・長与専斎(ながよせんさい)の細菌学導入計画に加わることとなるのです。

論文も発表し、学術的な成果も出し始めます。

そして、いよいよ転機が訪れます。

ドイツ留学です。

北里柴三郎はここで初めて細菌を学ぶことになるのですが、留意しておきたいのは、たとえドイツが西洋医学の本場であっても、細菌による感染症の認識はされ始めたばかりだった――ということです。

彼らの親の代までは「医者というのは血まみれであってこそ!」とすら、思われていたのです。

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日本の明治前夜の1865年。

手洗いの重要性を提唱したオーストリア人医師・センメルヴェイスは、精神病院に収監。

1881年のアメリカでは、狙撃されたガーフィールド大統領の治療を細菌感染を無視して行い、死なせてしまう悲劇が起きています。

そんな時代に、フランスのパスツールが細菌学を提唱し、イギリスのリスターが消毒法を確立させ、そしてドイツであの人物があらわれます。

北里柴三郎が師事するコッホでした。

ロベルト・コッホ/wikipediaより引用

明治政府は、そんな最先端の細菌学を学ばせる者を選抜しました。そのうち一名として長与推薦のもと北里柴三郎が決まったのです。

明治18年(1885年)、北里は横浜を出立。

当時のドイツにおいて、日本人が人種差別を受けなかったとは思えません。

しかし、やがて周囲のドイツ人研究者は、熱心に取り組む北里に感心するようになっていきます。

ともかく体力、根気が凄まじい。

実験器具の洗浄まで一人でこなす。北里柴三郎の実験は驚異的でした。

北里柴三郎は、コッホのもとでチフス菌、コレラ菌の研究から始めました。

そうした中、弟子の中でもずば抜けた成果をあげていきます。

・水素ガスを用いたウシの嫌気性菌・気腫疽菌(きしゅそきん)の純培養に成功

・破傷風菌の純培養に成功

・破傷風毒素・破傷風免疫の研究を行う

・1890年ジフテリアの免疫研究者E・ベーリングとの共著『ジフテリアおよび破傷風の血清治療について』免疫血清治療発見の論文を発表、世界的に名声を得る

・コッホのツベルクリン研究修得を目指し、皇室内帑金(ないどきん)によって留学期間延長を認められる

・プロイセン政府より、プロフェソールの称号を受ける

かくして彼の名声は世界的なものとなりました。

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