明治十七年(1884年)6月25日、貞明皇后(ていめいこうごう)が誕生しました。
大正天皇の奥様ですね。
少しずつ身分制度が改められてきた時代とはいえ、まだまだ「皇后になれる家柄」という概念は強く存在していました。
貞明皇后も藤原北家(例:藤原道長)の子孫である九条家の出身です。
元のお名前は九条節子さんですが、例によって”貞明皇后”で統一させていただきます。
※以下の記事は藤原道長の考察記事となります
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津田はじめ帰国子女たちに師事
貞明皇后はその身分の高さとは裏腹に、幼い頃は農家で生活していました。
当時は、皇族や華族(貴族)の間で「子供を自然の中で育てたほうが丈夫になっていいんじゃないか?」という考え方が流行っており、里子に出されていたのですね。
結果「黒姫様」と呼ばれるほど外での遊びを好み、日焼けして育った貞明皇后は、活発・健康的な女性に成長していきます。
5歳の頃に実家の九条家へ戻り、女子学習院(学習院女子大学の前身)に入学。
闊達だからといって勉強をおろそかにすることもなく、津田梅子など帰国子女たちに師事して国際感覚も身につけていきます。
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一方その頃、大正天皇(このときは皇太子嘉仁親王)のお側の人々はお妃候補を探していました。
大正天皇は生まれつき体が弱く、さらにお父上である明治天皇と接する機会も少なく、歳の近いご兄弟はほとんど亡くなられていたため、寂しさからくるストレスで心身ともにあまり丈夫とはいえない状態でした。
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そのため「妃を迎えれば、気分も明るくなり体が良くなるのでは?」ということで、十代のうちに結婚したほうが良いだろうという話になっていたのです。
そこで白羽の矢が立ったのが、超がつくほどの健康体であり、身分や見識も申し分ない貞明皇后でした。
結婚によって大正天皇も健康的になり子宝にも
周囲の予想通り、結婚によっていつも親しく話せる相手ができた大正天皇は健康的になり、子宝にも恵まれます。
かつては体調不良のために留年したり、学習院への通学を断念したほどだったのが、全国への行啓(ぎょうけい・天皇以外の皇族が出かけること)を始め、長時間の外出にも耐えられるほどになったというのです。
まさに「病は気から」という面が大きかったのでしょう。
”病弱な夫と健康な妻”というといかにも軋轢が生まれそうですが、貞明皇后は自ら大正天皇の身の回りの世話をしたり、実質的に天皇家で初めて一夫一婦制を確立したりと、極めて良好な関係でした。
大正天皇が47歳で崩御された後、貞明皇后は一日二回遺影の前で過ごす時間を欠かさなかったといいますから、本当に心の通い合ったご夫婦だったのでしょうね。
公共の福祉にチカラを入れた昭憲皇太后
さて、貞明皇后をはじめ、明治時代から現在まで”皇后”の成し遂げた改革は多岐にわたります。
歴史の授業ではやはり天皇と政治家・軍に比重が置かれがちですが、「国母」とされることもある皇后の役割もそれに勝るとも劣らない大きなものでした。もちろん現在もです。
お一人ずつ、どんなことをやってこられたのか簡潔にご紹介していきましょう。
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