小説や映画などで高評価になる作品には、往々にしてそういう展開がありますよね。
「事実は小説より奇なり」というくらいですから、歴史においてもこの手の話は多々あります。
慶応元年(1865年)9月27日は、横須賀製鉄所の起工式が行われた日です。
後の「横須賀海軍工廠(こうしょう)」として知る人ぞ知る施設ですね。
今回は、その生い立ちから見て参りましょう。
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幕府が終了し明治政府が再利用
この頃の「製鉄所」というと、明治時代の産業革命で設立された九州の八幡製鉄所を真っ先にイメージされるでしょうか。
設立のキッカケは、大河ドラマ『青天を衝け』にも登場した小栗忠順の提言で、そこに栗本鋤雲が助力、フランス人のレオン・ロッシュやメルメ・カションとの話し合いで仏国から協力を得ることに決まりました。
そこで技術担当で招かれたのがレオンス・ヴェルニーです。
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しかし、施設が力を発揮する前に幕府は戊辰戦争に敗北。
製鉄所に限らず、幕末は「着眼点良く、運が悪い」というものが多々見られますね。
誤解されがちですが、江戸幕府は対外国の対処については経験と先見性がありました。
薩長との戦争にしても鳥羽・伏見の戦いで敗戦はしたものの、海軍は十分に兵力を残しており、先のことはわからない状態だったという見方が有力です。
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いずれにせよ施設自体のスペックに問題はなく、明治政府が「ここ、うまく使えばウチらの役にも立つんじゃね?」と考えたため、幕府の遺産は再利用されることになりました。
そして戊辰戦争が終わったばかりの明治元年(1868年)9月に横須賀製鉄所を接収し、改めて造船所に作り変えます。
元が製鉄所=産業に関係するものだったので、当初は工部省の管轄になっていたようです。
その後、軍艦を作る比率が増したため、海軍の所属に。
明治三十六年(1903年)になって「横須賀海軍工廠」という勇ましい名前で再スタートするのでした。
工廠……海軍の船や武器を作る工場+武器庫
「工廠(こうしょう)」とは、簡単にいうと海軍の船や武器を作る工場+武器庫といった感じの施設です。
弾薬や銃器類を作る小さな工廠もたくさんありましたが、やはり船を作る施設は規模が大きく、重要視されていました。
造船をメインとする海軍工廠は全部で4ヶ所。
それぞれ得意分野があり、だいたい以下のような感じです。
・横須賀海軍工廠……空母
・呉海軍工廠……戦艦
・舞鶴海軍工廠……駆逐艦
・佐世保海軍工廠……軽巡洋艦・駆逐艦
もちろん、どの工廠でも得意分野以外の艦種も作っていました。
このうち呉海軍工廠では戦艦大和が建造されたことで特に有名ですね。
呉には現在も大和ミュージアム(正式には呉市海事歴史科学館)があります。
ちなみに大和の姉妹艦・武蔵はこの4つのどこでもなく、民間の三菱重工業長崎造船所で作られています。といっても、明治初期まではやはり国営だったのですが。
軍艦だけでなく民間用の船も多く作っています。
有名なものだと客船・貨物船として就役し、軍に徴用されて病院船となり、米軍の爆撃で沈められた「ぶゑのすあいれす丸」などですね。
他には、有名な船が多すぎて書ききれないのですが、横須賀で公園の名称にもなっている戦艦三笠はヴィッカース社で建造されたものです(船籍は舞鶴港)。
まぁ、こまけぇことは……ってことで。
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