宗谷

明治・大正・昭和

不死身の砕氷船「宗谷」戦火をくぐり戦後は南極観測へ出たタフな船

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砕氷船・宗谷
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ケープタウンでソ連とクリスマス

宗谷が南極へ駆り出されることになった背景には、世界的な事情がありました。

当時、「各国でそれぞれ船や人を出し合って、北極・南極の調査をしよう!」という話が出てきており、日本も参加しなければならなくなったのです。

このときも当初は別の船が候補に挙がっていたのですが、コストパフォーマンスと能力、運の強さなどを加味した結果、宗谷が使われることに決まります。

とはいえ極地での活動には特別な対策が必要なので、全国の職人と造船関連企業が総力と物資をかけて点検・改造を行ったとか。

現在の宗谷はかなり居心地の良さそうな内装になっていますけれども、それはこのときの改装によるものです。

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こうして、宗谷は乗員の他に、あの「タロとジロ」を含めた22頭の樺太犬・猫1匹・カナリア1羽を載せ、第一次南極観測へ。

途中で戦艦大和の沈没地点や、激戦が行われたルソン島などで献花を行っています。

また、台風に見舞われたときに船長が「戦時中に沈まなかったのは、艦内の宗谷神社のおかげだろう」と言われたことを思い出し、もう一度宗谷に艦内神社を作りました。

その後、100年以上ぶりの観測となるブランペイン彗星が見られたそうです。神様の答礼のようですね。

クリスマスの時期にはケープタウンへ入港し、現地の人々と共にクリスマスを祝いました。

このときからソ連の南極観測隊と交流を行うようになり、古馴染みのような間柄になります。

 

吹雪の中で船員たちが見た「南極ゴジラ」

南極への補給の後は天候悪化により二週間近く身動きができなくなりました。

天候回復を待って無事帰還。

南半球は一年の前半が台風シーズンのため、ケープタウン沖で船体が69度(!)まで傾きますが、転覆せずに港へ着いています。

ここでも豪運ぶりは健在ですね。

その後は無事ケープタウンに戻り、日本へ帰還しています。

第一次観測の後、南極での事故などを鑑みて、「宗谷より砕氷能力の高い船を使ったほうがいいだろう」という話もあったものの、良い船が見つからず、宗谷を改装して二度目の南極観測へ向かうことになりました。

しかし、その年の南極は天気が荒れており、宗谷をはじめとした各国の砕氷船が氷で難儀しています。

宗谷も左スクリューのプロペラが一枚折れるという被害を受けました。

それでも現地で研究を勤しんでいた第一次調査隊のうち11人と9匹の樺太犬、雄の三毛猫・たけし、カナリア2羽を連れて帰っています。

このとき残されたのがタロとジロ&他の樺太犬というわけですが、なぜカナリアが増えているんですかねぇ……。他の越冬隊からもらったんでしょうか。

また、この作業中に宗谷のスタッフ複数名が「謎の大型生物」を目撃したそうです。

当時の船長は著書で「南極ゴジラ」と呼んだらしいのですが……ゴジラってことは、二足歩行するデカイ生き物だったん? なにそれこわい。

その後も風速30m(台風と同じくらい)の吹雪で探照灯と電話アンテナがもぎ取られるという、割とシャレにならない被害を受けながらも、無事ケープタウンへ戻り、日本へ帰国しました。

戻った宗谷は、第二次観測と第三次観測の間に東京で一般公開されて大好評を得たり、映画に出演したり、横浜開港百年祭に出席したり、ますます芸達者になっていきます。

 

タロ・ジロと奇跡的な再会

前回の報告を受けた海上保安庁は、雪上車輸送から大型ヘリによる「空輸」に方針を変えることを決めました。

そのため宗谷に“ヘリ発着甲板”を設置。

世界初のことであり、そのせいで「砕氷航空機母船」というややこしい艦種になっています。

空母などの「母」とつく船は、航空機や潜水艦などの基地になる船のことで、乗員の休息や物資の補給をする能力を持っています。

イメージ的に「カーチャンの元でゆっくり元気になっていってね!」ということなんですかね。英語だと「母」に該当する単語はついていませんし。

他にも生物実験室などが新設され、動く研究所のような状態になりました。

以前の宗谷を知る人は、

「このときの改装で、宗谷の8割は別の船になってしまった」

と評していますが……そんなパラドックスもありますよね。

その後、南極へ向かい、タロ・ジロと奇跡的な再会を果たしました。

また、この観測で宗谷から飛んだヘリは不可能に近い悪天候での飛行も成功させ、各国の注目を浴びました。

この成功により、その後の補給船もヘリを使った空輸を基本にしていきます。

空輸がいよいよ重視されてきたこともあり、第四次観測の前に、航空関連に詳しい船長の着任と、ヘリのための施設などを新たに設けられました。

例によって立ち寄ったケープタウンでは、すっかり恒例となったソ連隊との交流が行われ、親善の一環としてバレーボール大会が開かれたとか。

冷戦下のはずですが、南極観測隊は軍隊じゃないから和やかだったんですかね。

第四次観測の年は天候に恵まれ、ソ連隊の協力もあって輸送は好調になり、過去最高の輸送量を記録します。

帰路では本土復帰前の沖縄から要請を受け、那覇に二日ほど寄港し、その後無事東京へ帰りました。

さすがに宗谷も老朽化はさけられません。

観測の仕事は第六次までと決まりました。

第五次観測の出立前に修理と改装が行われ、タロ用に冷房つきの犬小屋も作られています。これは、途中で熱帯地域を通るためです。

この観測では航行中に隊員の一人が虫垂炎になって船内で手術が行われたり、行き交った日本のマグロ漁船からインドマグロをもらったり、南極に着いたら浸水が見つかったり、いろいろとイレギュラーな出来事がありました。

マグロのお返しはちゃんとしたそうです。

浸水については航行に問題がない程度のものだったため、皆気づかなかったのでしょう。

タロも無事帰還しました。

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第六次観測では、昭和基地の閉鎖と越冬隊の帰還、まだ地図のなかった地域の航空測量が南極での最後の仕事となりました。

観測の往路・帰路で毎回立ち寄っていたケープタウンでも、宗谷の引退は惜しまれたそうです。

また、宗谷の機材がほとんど国産であることから、日本の技術力の高さを証明することにもなりました。

その後南アフリカ共和国から日本の藤永田造船所(戦時中に駆逐艦をよく作っていた造船所)に「宗谷と似たような南極観測船作ってほしいな」と発注が入るほどです。

お姫様でサンタでニンジャで営業マンとか、もうこれわかんねえな。

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