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【今村均】
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「餓島」とまで呼ばれたガダルカナル島の惨状を知っていた今村は、二の轍を踏むまいとラバウルを堅固かつ自給自足可能な要塞に作り変えました。
地下には病院や武器工場を作り、地上には田畑を増やさせ、自らも畑仕事をしていたといいます。
もちろん、ここでも部下や現地住民への思いやりは忘れませんでした。
この情報は米軍にも知られていましたが、その頃には既にラバウルの自給自足体制は完全に整っており、軍事的機能を奪われて他の島と連絡が取れなくなっても、占領されることはありませんでした。
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死刑判決を覆したのは住民たち!?
そのまま終戦を迎えた今村は、戦勝国によって軍法会議にかけられます。
一時は死刑判決が下りそうだったのに、現地住民らの弁護があり、禁錮10年で済みました。連合国側では死刑にしたかったようです。
それが、あまりにも住民に慕われていたので「今村を処刑してしまうと彼らの蜂起につながる恐れがある」と判断されたようです。
ラバウル以外でも、インドネシア独立活動をしていた人々が救出作戦を立てていたといいますから、今村の温情は何年経っても忘れられていなかったのでしょう。
その後は巣鴨拘置所(通称・巣鴨プリズン)に送られ、10年過ごすはずでした。
が、旧日本軍のうち、裁かれた人が全員帰国したわけではありません。
南方で服役している人たちもたくさんいました。
それを知った今村は「自分だけ日本にいることはできない」として、自らパプアニューギニアのマヌス島刑務所へ送ってくれと言い出します。
しかもただ看守に言ったのではなく、妻を通してGHQ最高司令官であるダグラス・マッカーサーに訴えたのでした。
これを聞いたマッカーサーは「これこそ真の武士道だ」と感じ、すぐに許可を出したといいます。
マヌス島にいた元部下たちも、今村を大歓迎したとか。
苦しいところに自らやってきてくれる上官なんてほとんどいませんし、もともと慕われていたでしょうしね。
刑期を終えて帰国しても終生自責の念
10年間の刑期を終えた後、今村は再び日本に戻ってきました。
それからも自責の念は止まず、自宅の片隅に小屋を建て、自ら謹慎を続けていたそうです。
収入は軍人恩給だけでした。
今村は回顧録を出版して印税を得ていますが、それは戦死や刑死した者、生きて返ってきた者問わず、元部下のために使っています。
中には嘘をついて今村に金をせびる者もいたそうですが、そうと気付いても拒まなかったとか。
軍を指揮していた側として、例え部下でなくても戦争のせいで困窮することになってしまった人々に対し、責任を感じていたのでしょう。
薬で自決しようとしたこともあるそうですから。
亡くなったのは刑期を終えてから14年後、昭和四十三年(1968年)のことでした。
82歳ですし、特に記録もないので、おそらくは穏やかに老衰で亡くなったものと思われます。
若い頃には自らの体質、長じてからは旧軍の体制、そして戦後は良心の呵責と向き合った人生でした。
戦場を職場と置き換えて考えてみると、これほど「理想の上司」という言葉が似合う人もいないように思えます。
もちろん人間ですから、今村にも多少の欠点はあったことでしょう。
しかし、当時の状況下で思いやりの心を忘れなかったこと、生存した上官としての責任を果たしたことは紛れもない事実です。
旧軍や「戦争に学ぶ」というとひたすら悪い部分しか報道されませんが、こういった人格者から学べることも多々ありますよね。
事実を伝えるのなら、欠点や悪事ばかりではなく、今村のような立派な人物についても広めるべきではないでしょうか。
個人的には「責任の取り方」の代表例として道徳の教科書に載せるべきだと思うんですけど、ダメですかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
別冊宝島編集部『日本の軍人100人 男たちの決断』(→amazon)
今村均/Wikipedia