今村均

今村均/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

旧日本陸軍大将・今村均はマッカーサーも「真の武士道」と認めた人格者だった

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今村均
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現地民や捕虜には温情を

とはいえ、何もかも順調だったわけではありません。

日本側の戦死者・負傷者も多数います。

司令官である今村自身も、上記6あたりの海戦で戦闘により船から放り出され、三時間も漂流したといわれています。

当然のことながら通信手段も失われたため、日本軍はしばらく指揮系統が大混乱したそうです。よくそれで勝てたもんですね。

ここからが今村の本領発揮ともいえるところです。

ジャワ島内を進撃する日本軍/wikipediaより引用

上記の通り、当時のインドネシアはオランダの支配下に置かれていました。

しかし当然のことながら、地元の人々にとっては気分が良いわけはありません。独立を目指して運動していた人もいましたが、オランダ軍に捕まっていた人もいました。

今村はこうした運動家を解放し、独立のための物資や資金を提供しています。

また、運動家以外の地元民に対しても温情ある態度をとりました。

石油価格を下げたり、オランダ軍の金を元手に学校を建てたり、インフラの整備にも努めています。

自分の部下たちに対しては「現地民に乱暴しないように」と言い含めました。これにはインドネシアの人々だけでなく、官民問わずオランダ人も含まれています。

当たり前のことなんですが、捕虜に対しても粗略には扱いませんでした。

象徴する話として、こんな逸話もあります。

 


「木綿を送れ!」本国からの命令をスルー

ジャワ島の特産物の中に、日本でも大量に消費される木綿がありました。

敗戦が近づく頃になると、当然のことながら本国では他の物資同様、木綿も足りなくなってきます。

そこで「ジャワの木綿を送れ」という命令が今村の元に届きました。

ジャワ更紗やバティックと呼ばれ、ユネスコの無形文化遺産にも登録/photo by MartijnL Wikipediaより引用

普通の軍人であれば、素直に従うか、あるいは命令以上の量を送るかどちらかだったでしょう。

しかし、今村はそのどちらもしませんでした。

ジャワ島では、お葬式の際に木綿の布で遺体を包むという習慣があったからです。

もちろん日常的にも使っていました。それを地元民からぶんどってしまっては、反感を招いて何もかもダメになってしまうと考えたのです。

当然、日本のお偉いさんからは怒られましたが、中には「今村のところが一番うまくやっているのに、怒るのは筋違いじゃないんですか」(意訳)と言ってくれる人もいました。

児玉源太郎の長男・秀雄です。

この人は議員なので、直接軍事には携わっていませんが、やはり英雄は英雄を知るものなのですね。

なんで同じお偉いさんの中でこんなに考え方の差があるのかというと、当時の日本が掲げていた「八紘一宇(はっこういちう)」というスローガンを曲解した人が多かったからです。

八紘とは八つの方位、転じて世界中という意味です。

また、一宇とは家の屋根のことをさします。

ものすごく単純に言うと「人類皆兄弟だから仲良くしようぜ!」というのが原意なわけですが、これを「同じ屋根のうちでも日本人が一番エラいんだから、進攻先で何をしてもおk!」という「何がどうしてそうなった」な解釈をした人がたくさんいました。

そのせいで、今村のように原義を重んじる人の肩身が狭くなってしまったのです。

この言葉に関しては他にもいろいろあるんですが、話が進まなくなるのでそろそろ今村の話題に戻りましょう

 


ラバウルを自給自足な要塞に作り変える!

蘭印作戦の後、今村はラバウルという都市に赴任しました。

現在のパプアニューギニアにある町で、水木しげる先生が今村に会ったのもここでのことです。

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ジャワで上記のような軍政を改めなかったための左遷だともいわれていますが、今村はここで、かつてから親交のあった山本五十六とも会い、山本が戦死した際には泣いていたとか。

また、全体的な戦況としても楽観はできなくなっていました。

「餓島」とまで呼ばれたガダルカナル島の惨状を知っていた今村は、二の轍を踏むまいとラバウルを堅固かつ自給自足可能な要塞に作り変えました。

地下には病院や武器工場を作り、地上には田畑を増やさせ、自らも畑仕事をしていたといいます。

もちろん、ここでも部下や現地住民への思いやりは忘れませんでした。

この情報は米軍にも知られていましたが、その頃には既にラバウルの自給自足体制は完全に整っており、軍事的機能を奪われて他の島と連絡が取れなくなっても、占領されることはありませんでした。

ラバウル航空隊/Wikipediaより引用

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