今村均

今村均/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

旧日本陸軍大将・今村均はマッカーサーも「真の武士道」と認めた人格者だった

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
今村均
をクリックお願いします。

 


死刑判決を覆したのは住民たち!?

そのまま終戦を迎えた今村は、戦勝国によって軍法会議にかけられます。

一時は死刑判決が下りそうだったのに、現地住民らの弁護があり、禁錮10年で済みました。

連合国側では死刑にしたかったようです。

それが、あまりにも住民に慕われていたので「今村を処刑してしまうと彼らの蜂起につながる恐れがある」と判断されたようで。

ラバウル以外でも、インドネシア独立活動をしていた人々が救出作戦を立てていたといいますから、今村の温情は何年経っても忘れられていなかったのでしょう。

その後は巣鴨拘置所(通称・巣鴨プリズン)に送られ、10年過ごすはずでした。

が、旧日本軍のうち、裁かれた人が全員帰国したわけではありません。

南方で服役している人たちもたくさんいました。

それを知った今村は「自分だけ日本にいることはできない」として、自らパプアニューギニアのマヌス島刑務所へ送ってくれと言い出します。

しかもただ看守に言ったのではなく、妻を通してGHQ最高司令官であるダグラス・マッカーサーに訴えたのでした。

厚木海軍飛行場に到着したマッカーサー(右から2番目)/wikipediaより引用

これを聞いたマッカーサーは「これこそ真の武士道だ」と感じ、すぐに許可を出したといいます。

マヌス島にいた元部下たちも、今村を大歓迎したとか。

苦しいところに自らやってきてくれる上官なんてほとんどいませんし、もともと慕われていたでしょうしね。

 


刑期を終えて帰国しても終生自責の念

10年間の刑期を終えた後、今村は再び日本に戻ってきました。

それからも自責の念は止まず、自宅の片隅に小屋を建て、自ら謹慎を続けていたそうです。

収入は軍人恩給だけでした。

今村は回顧録を出版して印税を得ていますが、それは戦死や刑死した者、生きて返ってきた者問わず、元部下のために使っています。

中には嘘をついて今村に金をせびる者もいたそうですが、そうと気付いても拒まなかったとか。

軍を指揮していた側として、例え部下でなくても戦争のせいで困窮することになってしまった人々に対し、責任を感じていたのでしょう。

薬で自決しようとしたこともあるそうですから。

亡くなったのは刑期を終えてから14年後、昭和四十三年(1968年)のことでした。

82歳ですし、特に記録もないので、おそらくは穏やかに老衰で亡くなったものと思われます。

若い頃には自らの体質、長じてからは旧軍の体制、そして戦後は良心の呵責と向き合った人生でした。

戦場を職場と置き換えて考えてみると、これほど「理想の上司」という言葉が似合う人もいないように思えます。

もちろん人間ですから、今村にも多少の欠点はあったことでしょう。

しかし、当時の状況下で思いやりの心を忘れなかったこと、生存した上官としての責任を果たしたことは紛れもない事実です。

旧軍や「戦争に学ぶ」というとひたすら悪い部分しか報道されませんが、こういった人格者から学べることも多々ありますよね。

事実を伝えるのなら、欠点や悪事ばかりではなく、今村のような立派な人物についても広めるべきではないでしょうか。

個人的には「責任の取り方」の代表例として道徳の教科書に載せるべきだと思うんですけど、ダメですかね。


あわせて読みたい関連記事

広瀬武夫
近代初の軍神・広瀬武夫「旅順港閉塞作戦」で劇的な戦死を遂げる

続きを見る

軍艦造りのプロフェッショナル・平賀譲! 不器用な海軍の職人魂ここにあり

続きを見る

山本権兵衛
薩摩藩出身の海軍大臣・山本権兵衛が西郷兄弟の思いを受けて要職歴任

続きを見る

コメントはFacebookへ

柴五郎
幕末会津の敗残少年から陸軍大将となった柴五郎~苦難の生涯85年を振り返る

続きを見る

乃木希典
元陸軍大将・乃木希典~妻と共に明治天皇に殉じた軍人の生き様を振り返る

続きを見る

妻と飛んだ特攻兵
妻を後部座席に乗せてソ連軍へ特攻『妻と飛んだ特攻兵』は涙なくして読めず

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
別冊宝島編集部『日本の軍人100人 男たちの決断』(→amazon
今村均/Wikipedia

TOPページへ


 



-明治・大正・昭和
-

×