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【安藤百福】
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脱税容疑で巣鴨プリズンへ
この年、百福は意外な落とし穴にはまります。
集まってくる若者へ小遣い代わりに渡していた金をめぐって、脱税疑惑をかけられるのです。
「小遣いではなく、あれは給与だ。源泉徴収して税金を納めなさい!」
そんな理由で、戦犯も収容されていたあの巣鴨プリズンに2年間も収監されてしまうのです。
やっと処分取り消しを受けて、出所したのは昭和26年(1951年)のこと。
再出発をはかろうとした百福ですが、またも落とし穴にはまってしまいます。
知人に頼まれ、信用金庫の理事長になるのですが、杜撰な経営がたたってあっという間に経営が破綻してしまうのです。
昭和32年(1957年)のことでした。
残ったのは借家のみ。
妻子を抱えて、47才で味わうドン底です。
「人間五十年」と考えますと、もう残り数年ということになります。普通の人でしたら心身ともに疲弊して、寂しい生活が待っていたことでしょう。
しかし、百福は諦めません。
「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」という……なんて前向きなハートでしょうか。
これは強がりなどではなく、彼にはあるアイデアがありました。
チキンラーメンへの道のり
それは他でもありません。一度は諦めたラーメンです。
このころ「経済白書」に「もはや戦後ではない」と言われるようになっており、終戦直後の深刻な飢餓は、既に過去のものとなっていました。
それでも、だからこそ、ラーメンの需要はあるはずだ。
百福はそう確信しておりました。
かといって、ラーメン店や屋台をやろうというのではありません。
あっという間にできる即席ラーメンを作る。
それが百福の考えでした。
百福の考えた成功に必要な条件はこの5つ。
・飽きの来ない味
・常備できる保存性
・手間いらず
・安価
・安全かつ衛生的
なんてアイデアを出したところで、ラーメン作りに関してはズブの素人です。国民栄養科学研究所の研究員の助けも借りられません。
もちろん諦めたりはしません。
百福は裸電球を吊り下げた小屋を自宅そばに作り、自転車で調味料や調理器具を運び込むと、朝の5時からヘトヘトになるまでラーメン作りに没頭しました。
睡眠時間は2時間から4時間。ナポレオンや野口英世も驚きそうなハードワークぶりです。
試行錯誤の日々は続きます。
材料は小麦粉だけではなく、片栗粉、山芋、チキンエキス、ほうれん草、脱脂粉乳までも使ってみました。
麺を作り、茹でて、失敗した麺は捨てる。ひたすらその繰り返しで、まさに気の遠くなる作業だったでしょう。
それでも粉にまみれて、一心不乱に麺を作り続けました。
昔、身につけた自炊経験が、役に立ちました。
掘っ立て小屋でひたすら麺を作る男。それも鬼気迫る姿であれば、ご近所さんも何だろうと不思議に感じたでしょう。
麺の表面に小さな穴が空きお湯をかければ水分を吸収
ようやく理想的な麺の配合が決まると、次は味付けです。
百福の理想は、最初から味の付いた麺でした。
じょうろを観た百福はピンと来ました。
スープをじょうろでかけて、乾燥させればよいのです。
次の問題は保存性。これも難題です。
アタマを抱えながら、天ぷらを揚げている様子を見て百福は閃きました。
「これだ!」
試しに油に麺をパラパラパラと入れてみると……。
カラッと堅く揚がる麺。
油に通すことにより、麺の表面には小さな穴が空きました。ここから水分を吸収させれば、水をかけたときに以前の状態へ戻すことができます。
更に百福は試行錯誤を重ね、麺をあげる時、枠に入れて一定の形に成型するようにしました。
我々の知るチキンラーメンに段々と近づいてくるのがわかりますね。
ここでいったん小休止。
さて、この「チキンラーメン」。
そもそも何故「チキン」なのでしょうか?
「ビーフ」でも「ポーク」でもなく、なにゆえ鶏なのか。
キッカケは少々時間を遡ります。
ある日、安藤家では鶏をしめて食べることにしました。
このとき、仮死状態だった鶏が暴れて血が飛び散り、子供たちはその様子がトラウマになって、鶏肉を食べなくなってしまったのです。
しかし、鶏肉でだしを取ったスープだけは、美味しいと飲み干します。
それがヒントになったのです。
「よし、味は鶏肉にしよう!」
結果的にこれが大成功の要因となりました。
チキンスープは世界各国で好まれる味。ビーフならばヒンズー教徒、ポークならばイスラム教徒が口にできなかったはずです。
チキンラーメンは、出だしからして国際的な展開が約束されたような、運命の食品でした。
「瞬間油熱乾燥法」ついに完成す!
麺の揚げ方が決まり、味は鳥にチョイス。
さて、ここからいよいよ大量生産のテストです。
百福は、試作の機械で次の工程に挑みました。
1. 生地をローラーにかける
2. 細く切る
3. 麺を蒸す
4. 麺をほぐす
5. 蒸した麺にチキンスープをまぶす
6. 麺をすのこに並べて陰干しする。このとき麺の水分は40パーセント程度にする
7. 枠に8食分入れて160度の油であげる
8. 扇風機で冷ます
9. 包装する
10. ダンボールに30食詰めて完成!
途中で百福が機械で指を切断しかける事故がありましたが、これがうまくいきました。
家族も手伝いながら、一日で400食を作成。
「瞬間油熱乾燥法」の完成です。
世界を変え、愛される食品がいよいよ誕生したのです。
チキンラーメン発売開始 そして大ヒット!
大阪梅田の百貨店地下に、食品売り場の試食コーナーがありました。
昭和33年(1958年)8月、そこにいたのはスーツを着込んだ百福。
テーブルの上には丼と箸、そしてやかんだけ。
丼の中には、誰も目にしたことのない“奇妙な糸の塊”が入っていました。
「お湯をかけてたった二分! ラーメンですよ、是非めしあがってください!」
足を止めた客が興味津々、その様子を見ていると、あらフシギ!
糸の塊にお湯が注がれると、ふくれあがり、ほぐれ、麺に変わっていくではないですか。
まるで魔法か手品。そんな驚きの表情を浮かべ人々は足を止めます。
驚くのはこれから。
試食客に丼を渡し、一口すすらせると驚嘆の笑みと共に言葉が溢れ出てきました。
「うわ、これ、ほんまにラーメンやん!!」
「おっちゃん、こっちも買うわ!」
「どれ、ワシにもちょいと……」
食で人を幸せにしたい百福が見たかった笑顔が、そこにはありました。
チキンラーメンはあっという間に完売御礼となります。
アメリカの貿易会社でも大好評でした。
「食はボーダーレス、国境はない」
ラーメンが好きな日本人だけではなく、アメリカ人にも好評であるということに、百福は手応えを感じたのです。
この年の12月、「日々清らかに豊かな味を作りたい」という願いのもと、百福は社名を「サンシー殖産」から「日清食品」に変更しました。
しかし流通関係者は当初渋い顔を浮かべておりました。
チキンラーメンも日清食品も、当時は知名度ゼロ。ヒットするかどうかは不明……というより価格も割高で無謀に近い。
「こんなん乾麺と同じやん。うどん一玉6円、乾麺25円やで。35円で売れるわけないやろ」といった調子で酷評されていたのです。
それでも百福は確信していました。
チキンラーメンは従来の乾麺とはまるで違う、新しい食品である。
一度食べれば絶対にその違いがわかるはず、人々は絶対に飛びつくはずだ、と。
その通りでした。
一度食べると味と手軽さは人々を虜にして、爆発的に売れ始めるのです。
当初は渋い顔を浮かべていた流通業者も、もっと売ってくれとせがむようになります。
他ならぬ消費者が「もっともっと欲しい」と訴え、無視できなくなったのでした。
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