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マスコミの野球バッシングに対抗
そんな野球人気に対して、明治43年(1910年)、東京朝日新聞がアンチ記事を書き始めました。
このアンチ記事に、他の媒体も乗っかり始めるのですが……完全にイチャモンです。
学生野球の有名選手がチヤホヤされすぎて、スター気取りだとか。
ユニフォームが派手だとか。
学生の分際で試合の入場料を取りやがって生意気だとか。
要するに
「学生が調子こいているんじゃねえよ」
という理不尽なものです。
このアンチ野球バッシングに対し、立ち上がったのが、押川を中心とした「天狗倶楽部」でした。
「天狗倶楽部」とは、押川を中心として、早稲田のバンカラ気質やイキのよい青年らを中心に集めた団体です。
大の野球好きの押川を中心として、バッシングに反論を始めました。
まず押川は、当時刊行されつつあったスポーツ雑誌『月刊ベースボール』はじめ、多くの雑誌にアンチ派への反論を掲載。
その内容は、元記事の数倍にわたる文字数という熱いものでした。
現代で言えば大炎上 燃え盛ってそして……
押川や彼の仲間たちは、熱血で、気のいい青年たちでした。
冒険とスポーツを愛する、それまでの日本にはいなかったタイプ、いわば「快男児」たちです。
薄汚い大人のバッシングに全力で抵抗し、若者たちも押川らを支持しました。
結果、押川らの熱は、かえって火に油を注いだようになって【野球害毒論争】はさらに燃え上がるのです。
いわば、炎上ですね。
新聞どころか、前述の通り新渡戸稲造ら教育界のビッグネームも参戦。
ますます燃え上がります。
現代人からすれば、
【こんなトンデモ理論が通るわけないだろ】
とツッコミたいのですが、さしもの押川も、権力者には勝てません。
押川は試合に負けて、勝負に勝ったようなもの。ヒートアップしすぎました。
大正元年(1912年)、新渡戸稲造への反論記事が激烈過ぎるとして謝罪を余儀なくされた押川は、野球害毒論争で疲弊し、失意のまま酒に溺れて、命を縮めてしまうのです。
しかしご存じの通り、野球は日本の隅々にまで根付いているわけです。
押川は勝ちました。
彼の弟・押川清は、日本のプロ野球創始者として知られています。
明治の近代スポーツ黎明期、命を削ってまでその振興に尽くす――。
それが1914年の11月16日に亡くなった、押川春浪の人生でした。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
横田順彌『快男児 押川春浪 (徳間文庫)』(→amazon)
『国史大辞典』