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野球なんて卑しい競技は潰しちまえ!害悪論のピンチ 守り抜いたのは押川春浪

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野球ブームがやって来た

W杯の盛り上がりなんかと比較して、昨今はやや翳りが見えてきたと思える野球。

それでも日本での人気はトップクラスです。

日本からメジャーリーグへ移籍して活躍する選手も当たり前となっており、実力面でも世界屈指といえるでしょう。

そんな日本人の野球熱は、明治時代になってすぐに始まりました。

明治4年(1871年)、居住地での日米交流試合を皮切りに、日本人は急激に野球に夢中になっていったのです。

とはいえ野球は、明治の日本人にとって、あまりに異次元なスポーツでした。

・団体競技
・球技
・駆け引き重視

とまぁ、言葉にすれば少々堅苦しく、ルールが細かい。

日本には、蹴鞠のような競技も確かにありましたが、もっと身近な江戸時代の武道と比べたら、身体の動かし方も全然違いますよね。

そもそも精神修練を重要視していたのが日本人の武芸です。

明治時代になって突如やってきた、欧米的な娯楽性の高いスポーツに、嫌悪感を抱く人もおりました。

しかし、楽しいものとは放っておいても流行るもの。

野球はあっという間に普及していきます。

飛びつくのはやはり若者であり、彼らの親や教師となる層は、けしからんと考えておりました。

その人気が最初に頂点に達したのが明治37年(1904年)。

第一回の「早慶戦」、つまり早稲田大学vs慶応大学の試合が開催されました。

「早慶戦」といえば、漫才の元祖・横山エンタツと花菱アチャコによる漫才ネタとしても有名ですね。

なぜ漫才の演目になったのか?というと、それだけ人気があったから。

漫才は、当時最先端流行を追う若者を中心に火が付いた芸能です。

「早慶戦」はまさにうってつけのテーマであったのでしょう。

 


マスコミの野球バッシングに対抗

そんな野球人気に対して、明治43年(1910年)、東京朝日新聞がアンチ記事を書き始めました。

このアンチ記事に、他の媒体も乗っかり始めるのですが……完全にイチャモンです。

学生野球の有名選手がチヤホヤされすぎて、スター気取りだとか。

ユニフォームが派手だとか。

学生の分際で試合の入場料を取りやがって生意気だとか。

要するに

「学生が調子こいているんじゃねえよ」

という理不尽なものです。

このアンチ野球バッシングに対し、立ち上がったのが、押川を中心とした「天狗倶楽部」でした。

天狗倶楽部/wikipediaより引用

「天狗倶楽部」とは、押川を中心として、早稲田のバンカラ気質やイキのよい青年らを中心に集めた団体です。

大の野球好きの押川を中心として、バッシングに反論を始めました。

まず押川は、当時刊行されつつあったスポーツ雑誌『月刊ベースボール』はじめ、多くの雑誌にアンチ派への反論を掲載。

その内容は、元記事の数倍にわたる文字数という熱いものでした。

 


現代で言えば大炎上 燃え盛ってそして……

押川や彼の仲間たちは、熱血で、気のいい青年たちでした。

冒険とスポーツを愛する、それまでの日本にはいなかったタイプ、いわば「快男児」たちです。

薄汚い大人のバッシングに全力で抵抗し、若者たちも押川らを支持しました。

結果、押川らの熱は、かえって火に油を注いだようになって【野球害毒論争】はさらに燃え上がるのです。

いわば、炎上ですね。

新聞どころか、前述の通り新渡戸稲造ら教育界のビッグネームも参戦。

ますます燃え上がります。

現代人からすれば、

【こんなトンデモ理論が通るわけないだろ】

とツッコミたいのですが、さしもの押川も、権力者には勝てません。

押川は試合に負けて、勝負に勝ったようなもの。ヒートアップしすぎました。

大正元年(1912年)、新渡戸稲造への反論記事が激烈過ぎるとして謝罪を余儀なくされた押川は、野球害毒論争で疲弊し、失意のまま酒に溺れて、命を縮めてしまうのです。

しかしご存じの通り、野球は日本の隅々にまで根付いているわけです。

押川は勝ちました。

彼の弟・押川清は、日本のプロ野球創始者として知られています。

押川清/wikipediaより引用

明治の近代スポーツ黎明期、命を削ってまでその振興に尽くす――。

それが1914年の11月16日に亡くなった、押川春浪の人生でした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
横田順彌『快男児 押川春浪 (徳間文庫)』(→amazon
『国史大辞典』

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