今ではほぼ死語になってしまいました「深窓の姫君」「深窓の令嬢」という表現。
なんとなくたおやかな雰囲気がありますが、正真正銘この単語が似合うような生まれ育ちの人でも、イレギュラーな方はたびたびおられます。
天保五年(1834年)12月13日は、英照皇太后が誕生した日です。
亡くなられてから、追号として「皇太后」と呼ばれるようになりました。
写真を見るといかにも公家出身のお姫様という感じがしますが、幕末~明治の激動の中、どのように生きていったのでしょうか。
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幕府の反対で准三后になった
英照皇太后は、九条家の出身です。
大正天皇の皇后・貞明皇后とは「おば・姪」の関係にあたります。
初名は基君(のりきみ)といい、12歳のときに孝明天皇(当時は皇太子)の下へ嫁ぎました。
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翌年、孝明天皇の即位にともなって皇后になるはずでしたが、幕府の反対で准三后になっています。
足利義満などがもらったアレです。
そもそも准三后とは「太皇太后・皇太后・皇后に准じる」という意味ですから、皇后になってしかるべき人がもらうのはおかしな称号なのですが……なぜ幕府がこんなところにイチャモンをつけたのかサッパリわかりません。
夫婦仲は良好だったらしく、英照皇太后は10代のうちに内親王を2人産みました。
2人目が公武合体の話題で少し名前が出てくる富貴宮です。十四代将軍・徳川家茂の正室になるかもしれなかった人ですね。
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当時、富貴宮はまだ生まれたばかりだったので、和宮が渋々降嫁を了承した……というのは有名な話です。
富貴宮はその後1歳にもならずに亡くなってしまったので、いろいろな意味で和宮が降嫁したのは正解でした。
最初に産んだ順子内親王も2歳で亡くなってしまっていて、英照皇太后は相当なショックを受けたことでしょう。
また、孝明天皇も無理に子供を作らせようとはしなかったのか、富貴宮が亡くなった翌年に、当時9歳の明治天皇を養子にしています。
このころは武家でも公家でも「側室の産んだ子を正室の子供扱いにする」ということがよく行われていました。
大正天皇も、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)ではなく、側室の生まれです。
だいたいの場合、成長してから実の母のことを知ることが多かったので、子供のほうはショックを受けることも多かったとか。そりゃそうだ。
英照皇太后・昭憲皇太后が揃って富岡製糸場へ
英照皇太后と明治天皇の場合は物心ついてからだったためか、比較的割りきったつきあいができていたようです。
孝明天皇が急死したため、立后されることはありませんでしたが、明治天皇即位の後は皇太后と呼ばれるようになりました。
東京奠都(てんと)の後は東京・赤坂の地に移り住んでいます。
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明治時代は女性の行動範囲が大きく広がったことも特徴の一つですが、国の母としての立場である英照皇太后や、昭憲皇太后も積極的に行啓(皇族の外出)をするようになりました。
有名所だと、富岡製糸場に英照皇太后・昭憲皇太后が揃って行啓し、工場内を見学している様子の壁画があります。
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おすべらかしに緋袴という伝統的な衣装ですが、足元はおそらく靴を履いているのがいかにも明治時代らしい感じですね。
英照皇太后は60歳近くなってから、葉山御用邸付近にある森戸神社へ参拝したりもしていて、立場や出身からすると割とアグレッシブだったことがうかがえます。
この辺は姪である貞明皇后と似ていますね。
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