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明治・大正・昭和

吉本興業の創業者・吉本せいはどんな経営者だった?波乱の生涯60年

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物販でも一儲け

また、せいは考えました。

収入は入場料だけなのだろうか。

夏場、蒸し暑い中、客は汗を拭きながら寄席から外へ出て行きます。

『あんなに汗かいとったら、帰りに何か冷たいもんでも飲んでいかはるんやろなあ……』

と、そこでせいは気がつきます。

物販の可能性です。

思い立ったら行動が早いせいは、菓子屋で冷やし飴を仕入れました。

冷やし飴とは、いわゆる普通の“アメ”ではなく“飲み物”です。

お湯で溶いた水飴の中に生姜の搾り汁を加えたもので、関西圏(現在では他に広島県・高知県)で飲まれる夏のドリンクです(参考/日経新聞)。

せいは即席の店を寄席に併設すると、“氷で冷やした”冷やし飴を売り始めたのです。

しかも販売方法が一風変わっておりました。

普通は樽に入れて冷やすところを、彼女は氷の上に冷やし飴の瓶を置き、その上でゴロゴロ転がして売ったのです。

この瓶を転がすスタイルが受けて、道ゆく人は面白がって買い始めます。

はじめは寄席の客だけに売るつもりが、通行人にまで売れます。

ついには「飴のついでに寄席でも見て行くか」と、冷やし飴を買うために脚を止めた客が、寄席に寄っていくという効果まで!

物販の可能性に気づいたせいは、さらに工夫をします。

現在、舞台鑑賞の際は飲食禁止が一般的ですが、当時は寄席の席で何かしら食べるのは当たり前でした。この食べ物の種類に見直しを加えたのです。

例えば、甘い物よりも、なるべく塩辛い物を売る。

そうすれば、喉が渇いて飲み物も売れるだろう、ということです。

更には冬場になると、客の食べ残した蜜柑の皮を拾って乾燥させ、漢方薬局に売ったというのですから、凄い工夫です。

一方で、自分で始めておきながら事業に余り身を入れない旦那の吉兵衛。

ボンクラな夫の横で積極的に商売に精を出し、更には芸人たちにも優しく配慮するせいの姿に感銘を受けました。

「あのおばちゃんのためにも、がんばらんとあかん!」

せいは創業当時から、吉本興業の屋台骨でした。

 


上方演芸界を席巻する

せいの涙ぐましく、かつ現代でも通用する物販の工夫は素晴らしいものがあります。

しかし、商売はそれだけで大きくなるものでもありません。

1915年(大正4年)、吉本興業部は多角経営していた複数の寄席を「花月」と改名しました。

例えば第二文芸館は「天満 花月」。

「花と咲きほこるか、月と陰るか、全てを賭けて」

そんな意味が込められたなかなか風流な名前でした。

当時、関西のお笑い界は、様々な派に分裂していました。

吉本興業部は、派閥に属さない落語家を集めて「花月派」を結成。さらには「浪花落語反対派」も吸収します。

これは「浪花の落語に反対する一派」ではなく、ひとつの派です。

寄席だけではなく、ものまねや義太夫、娘義太夫、剣舞、曲芸も含める派でした。

さらには三友派の中心となる「紅梅亭」を買収することで三友派までおさめ、1922年(大正10年)までには上方演芸界の帝王として君臨することになりいます。

このあたりの躍進は、仕事は熱心でなくとも芸人界に顔が利く吉兵衛の存在も大きかったことでしょう。

吉本興業部では、客を呼べる芸人にはポンと金を積み上げます。

するとそれを見ている芸人たちは、「吉本の御料さん(奥様)は気前のよい人やで」と自ら売り込みにやって来ます。

まさしくこれはせいの計算通りです。

こうして抱えた虎の子の芸人は、看板芸人としてドーンと派手に宣伝するわけです。

ちなみに、ある芸人の月給は五百円でした。

当時の中堅サラリーマンが四十円の時代ですから、いかに高給取りかご理解いただけるでしょう。

 


あの小僧、金勘定はわかっても、芸はちぃともわからへんで

1923年(大正12年)に関東大震災が起きたときも、吉本興業部はチャンスに変えました。

せいは復興のための救援物資を関東に送ります。

義援金だけではなく、寝具や食料といった今すぐ欲しいものを送るのがせいの才覚。気落ちしている関東の芸人をしっかりと支えたのです。

東京の芸人たちは、復興を待たずに大阪にやって来て寄席を始めました。

お笑いにも東西の違いはあるもので、彼らの芸は必ずしも関西の客に受けるものでもありませんでしたが、そこは「寄席を見て復興支援」ということもあるのでしょう。客入りは上々でした。

しかし、ここで試練がまたせいを襲います。

1924年(大正13年)、せいにとって最後の子である二男が生まれて間もなく、吉兵衛が亡くなったのです。

37才という働き盛り。幼い子を抱えて、せいは34才で未亡人となってしまったのでした。

せいは、実弟の正之助と弘高を呼び寄せ、吉本興業部を手伝わせることにします。

彼ら実弟は優秀であり、事業は順調に拡大を続けました。

弟が優秀というのは確かにそうではあるのですが、ただし、正之助は「金勘定は得意でも芸のことはわからない」人物でした。

吉兵衛は欠点だらけの男には思えますが、芸はわかるため落語家も一目置きます。

折衝も得意です。

しかし若く、芸能センスもない正之助は、落語家からナメられっぱなしでした。

「あの小僧、金勘定はわかっても、芸はちぃともわからへんで」

正之助は、玄人的なお笑いセンスよりも、わかりやすいものの方が好きだったのです。

それをマイナスどころかプラスに使ったのがせいの鋭い商売勘です。

センスのない正之助でも笑える芸ならば、万人受けするだろう、と弟の感覚をむしろ重宝しました。

その一方で憤懣やるかたない落語家たちの愚痴を聞いて、なだめる役割も果たしました。

もう一人の弟・弘高は兄とは違い、シビアな感覚よりもロマンチスト的な部分がありました。

兄弟はかなり性格が異なり、もし一緒に大阪で仕事をしたらば対立したのではないかと思われる部分もあります。

それを適材適所に配置するセンスもまた、せいは持ち合わせておりました。

人情の機微に敏感な方だったのでしょう。

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