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【北里柴三郎】
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ドイツ留学生と脚気
留学生活は大変なものでした。
当時の留学生仲間である夏目漱石は、ロンドンで神経を病んでいるほど。
異国で慣れぬ食事を取り、息抜きもろくにできない。大変なことでした。
ドイツ留学をした医者といえば、森鴎外もおります。
彼の代表作『舞姫』を授業で習い、怒りを覚えた人もいたことでしょう。ドイツでダンサーのエリスを妊娠させ帰国するという、格調高い無責任男の話です。
あのモデルは作者自身説もありますが、この一件についてはハッキリとはしません。ただ、少なくともあの小説のような無責任留学生もいたということではあります。
北里柴三郎も、性的には潔癖とは言い難い人物です。
しかし、ドイツ時代には『舞姫』経験はないようです。学問に取り組んでいました。
学問ばかりに取り組めず、情緒を求めた留学生の筆頭が森鴎外だとすれば、学問を極めた筆頭が北里です。
そんな北里柴三郎が否定した菌があります。
「脚気菌」です。
オランダ人細菌学者・ベーケルハーリングが発見したというこの菌に、北里は猛烈な批判を加えます。
師匠であるコッホを挟んで大激戦となったものの、北里柴三郎の正しさが証明されました。ベーケルハーリングは北里に感謝し、親交を深めているのです。
しかし、日本にはベーケルハーリングほど懐の広い研究者はおりませんでした。
東大の緒方正規は、北里柴三郎の批判を根に持っています。
このことが北里の人生に暗い影を落とすこととなるのです。
この脚気論争で、間違った説を展開し、日露戦争で大失態をやらかした人物もおります。
かの森鴎外です。
かくして北里柴三郎は森鴎外と、のちに火花を散らすこととなるのでした。
受け入れ先がない北里を救った福沢
明治25年(1892年)、世界的名声と共に北里柴三郎が帰国します。
海外から招聘を断ったうえでの帰国でした。
最先端の医療を身に着けての帰国ですからね。さぞや引く手あまただろうと思えますが、行き場所がありません。
北里柴三郎の激しい性格が災いしたのか、医学会の派閥争いか。
彼は絶対に譲らない性格ゆえに、日本の医学界を猛烈に批判し続けていました。コッホのもとで学ぶ間も、厳しいことを言い続けたのです。
いくら優秀だろうと、あんな奴はいらん。
そう思われても不思議ではありません。
これは考えておきたいところです。
明治政府は功績ばかりが美化されがちですが、のちに紙幣に選ばれたような人物を、しょうもない派閥争いで路頭に迷わせかける。そういう日本的な欠点も内包しておりました。
内務省に復職するものの、伝染病研究をできそうにもない北里柴三郎。
腐りそうになる彼に援助の手を差し伸べた人物がいます。
福沢諭吉です。
師匠である長与が、大阪の適塾仲間である福沢にどうにかならないか?と頼んだのがキッカケで、福沢は快諾します。
国際的に才能ある人物を埋もれさせたままにしてはならない。そう考えたのです。
かくして不遇の帰国を果たした年末には、東京芝公園内に、大日本私立衛生会管理下の「伝染病研究所」が開設されました。
このあと、国の機関とすべきかどうか、二転三転することになるこの医療機関。
これには北里自身の性格も関係しています。
対立した東大と関係の深い文部省には頑固たる態度を取っているものの、内務省管轄となるとすんなり折れているのです。北里柴三郎と政府、医療機関の関係はなかなかややこしいのです
が、その原因には彼の肥後もっこすぶりもあるのでした。
福沢と意気投合したというのも、納得できるところです。
二人には共通点があります。
・武士としての誇り
・海外経験
・気に入らなければ宮仕えをしない、頑固さ
二人は似た者同士だったということでしょう。
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香港ペスト調査隊の呉越同舟
明治27年(1894年)は、官命により香港でのペスト流行を調査、ペスト菌を発見します。
ペストといえば、中世ヨーロッパを襲い、「死の舞踏」にたとえられたほど。それが明治の開国以来、日本も脅威にさらされ始めたのです。
防疫が必須。そこで活躍した北里柴三郎は素晴らしい!
こう書くと、なんだかすんなりとしていますよね。
日本一丸となっていたかのようですが、そうでもありません。
これがなかなか大変なことでして。
調査隊の目的地は、当時から人の往来が多い香港でした。
衛生状態はとてもよいとは言えません。ペスト菌を調査するうちに、おそるべき事態が起こります。
調査隊の青山胤通と石神享が感染し、高熱で死線をさまよったのです。
二人とも遺書を書いたほどでした。
北里柴三郎と青山本人は学生時代からの付き合いでもあり、そこまで仲が悪いわけでもありません。
しかし、周囲からするとこうなるのです。
パスツール(フランス)
vs
コッホ(ドイツ)
陸軍(ドイツ、東大)
vs
海軍(イギリス、私立大)
青山・東大(文部省)
vs
北里・伝染病研究所(内務省)
明治政府の藩閥政治、しょうもない対立構図は伝統的ですが、こんなことでもやるのかとちょっとげんなりしてしまいますね。
北里柴三郎がペスト菌を発見し、青山らを治療して、これで万歳とならないのが面倒なところです。
北里のペスト菌発見は本当なのか?
そんな真贋論争でマスコミが大騒ぎ。
ここで先陣を切っているのが、あの森鴎外です。彼は東大派閥でした。
世紀の大発見であるはずが、しょうもない派閥争いでバッシングがあったこと。
これは紙幣について考えるうえでも、大事なことです 。
くだらない派閥争いで、北里柴三郎すら消しかけたということを教訓としなければならないでしょう。
このペスト防疫の結果、ブームとなったものもあります。
猫の飼育です。
幕末に来日した外国人が驚くほど、猫が愛されていた日本。
セレブの飼い猫は、贅沢の極みのような生活を送っていました。
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そんな猫によるネズミ捕りが、ペスト防疫に有効である――と、コッホと北里柴三郎が広めたものですから、ますます人気が高くなったのでした。
指導者として、恩義を返す者として
こうした功績のあったその年、伝染病研究所は動物舎や病室を備えリニューアルを果たしました。
北里は治療用免疫血清・予防用ワクチン製造を行う傍ら、後進の育成にも努めています。
・野口英世
・志賀潔
・秦佐八郎
・北島多一
・梅野信吉
熱血の肥後もっこすであり、東大はじめ生涯対立がつきまとった北里柴三郎。
しかし、その指導者としての熱意は確かなものでした。こうした師あればこそ、多くの医学研究者が現れたのです。
北里柴三郎と交流のあった人物といえば、こんな話もあります。
明治34年(1901年)、北里とともに免疫血清治療発見の論文を発表したベーリングが、第1回ノーベル医学生理学賞(1901)を受賞しています。
このことに関する陰謀論もあります。
北里柴三郎も候補者であったのにも関わらず、ベーリングが割って入って受賞したというものです。
西洋人は東洋人を差別するという刷り込みあっての陰謀論の類であり、大げさにいいたてるものではないでしょう。
両者の論文発表から年月が経過しています。
この研究を進めてきたのは、ベーリングであり、北里柴三郎ではありません。
北里の共同研究者が受賞したということだけでも、彼の優秀さと着眼点の良さは明白です。敢えて無粋な陰謀論を展開する必要はないでしょう。
対立の多い喧嘩好きな北里柴三郎ですが、恩師への情熱は確かなものです。
明治41年(1908年)にコッホが来日した際には、きわめて盛大に歓迎し、感謝の意を示しています。
負けん気が強い北里ですが、その一方で自分を理解し、自分が理解した人物には、きわめて誠実に接していたのです。
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