北里柴三郎

北里柴三郎/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

東大とバトルし女性関係も激しい北里柴三郎~肥後もっこす78年の生涯

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栄誉と対立、そして移管騒動

北里の栄光は、続いていきます。

研究者としての誇りだけではなく、名誉や名声も喜んだ北里柴三郎です。

各国政府、学会から名誉会員といった称号と栄誉を受け続け、明治39年(1906年)には帝国学士院会員にまでのぼりつめます。男爵として爵位を得ました。

しかし男爵として宮中晩餐会に招待されても、参加しなかったそうです。

内心、自分より上だと認めたくない相手が、席次が上だと不愉快だったのだとか。

そんな北里柴三郎にとって、絶対に認められない自体が起こります。

大正3年(1914年)、大隈重信内閣が突如、伝染病研究所を内務省から文部省へ移管、東大の組織下に移すことを発表したのです。

これまでもそんな話はありましたが、北里柴三郎が断固として反対していました。

それを受けてか、青天の霹靂のような決定であったのです。

長年の敵対関係である東大の軍門にくだれということ。しかも不意打ちです。これに北里が納得できるはずもありません。

北里柴三郎は反対し、彼と全職員30名が辞職するという強硬手段をとったのでした。

辞職した職員は「赤穂義士」と呼ばれたとか。

ただの美談でもありません。

関係者に自殺者は出るわ、北里柴三郎には公費横領疑惑がかけられるわ(冤罪)。

大騒ぎとなります。

東大にしてみれば、研究所だけではなく研究者も欲しかったことでしょう。ゆえに大変な挫折となったのです。

武士の国替えのような、すさまじい事態でした。

北里柴三郎は、私財をもって北里研究所を創立、生涯所長を務めています。

そして東大附属伝染病研究所と北里研究所は、しばらく対立が継続。研究の際には恨みを忘れて協力することはありましたが、基本的には犬猿の仲です。

関係が改善したのは、恩師・長与の子である長与又郎が第四代所長となってからのこと。

あの北里柴三郎も、恩師の子には礼を尽くしたかったのでしょう。

彼は恩義に篤いところがあり、困窮していたコッホ未亡人を金銭的に援助していました。

さらには福沢諭吉への恩義に報いるため。福沢の慶應大学医学部創設にも尽力。

大正6年(1917年)の医学部創設に際して、医学科長に就任しました。

 


晩年の苦悩

貴族院議員、大日本私立衛生会会頭、日本医師会会長、第6回極東医学会会頭等など。

華々しい経歴を持つ北里柴三郎の晩年を苦しめたのが、我が子のスキャンダルでした。

大正14年(1925年)、長男・俊太郎が芸者と心中事件を起こし、相手だけが亡くなってしまったのです。

北里柴三郎は癇癪持ちであり、我が子を怒鳴りつけることもあったものの、子煩悩なところもある四男三女の父でした。しかし、マスコミとその読者はそうは思いません。

一連のスキャンダル報道で、北里家の家庭事情が赤裸々にスクープされてしまったのです。

「家庭内不和! 暴君のような父に悩んで心中か?」

「芸者遊びは父譲りなのか? そのスキャンダラスな下半身」

こんな論調が広がり、北里の恥部まで、明らかにされてしまうのです。

性格的に似た者同士であり、かつ恩義のある福沢ですが、実は北里柴三郎は彼を怒らせています。

その原因は女性関係でした。この点においては、両者は一致しないのです。

北里柴三郎は優等生でもなければ、聖人でもありません。

当時はステータスシンボルとして、芸者と遊び、妾を持つことは当然のこと。それを実行してしまった北里に、福沢は苦言を呈しています。

福沢は、日本人男性のゆるすぎる貞操論を繰り返し批判しています。当然の帰結でしょう。

そんな恥部が、我が子のスキャンダルで暴かれてしまったのです。

しかも、彼は男爵位を継ぐべき嫡男。華族の品位を傷つけるものして、重大深刻なものと受け止められました。

以降、北里家の業績は次男である善次郎が継ぐこととなります。爵位は父の死後返上しておりました。

そんな中、北里柴三郎は自らの研究所所長以外の職を辞職します。

慶應大学からは慰留されておりますが、師匠への恩義を語る弟子たちに、北里は涙したものです。

そうした最中心労がたたったのか、事件の翌年には妻・乕(とら)が急逝。

享年57。

それから5年後の昭和6年(1931年)、北里本人も自宅で脳溢血により死去。

享年78。眠るような最期でした。

 


新紙幣の顔である北里柴三郎

医学に尽くした聖人のようなイメージがありますが、実は熱血肥後もっこすであり、生涯東大と戦い抜いた闘志の人でもありました。

こうして辿ってくると、なぜ弟子である野口英世が取り上げられるのか、見えてくるものがありませんか。

彼の過激な言動と比較すると、留学費用で芸者遊びをした野口が子供のやんちゃに思えるほど。

本稿ではそこまで詳細には書いておりませんが、北里柴三郎の女性関係はかなりのものです。

福沢が苦い顔になっても不思議は全くありません。

野口は洒落になる。北里柴三郎はそうではない。これは重要な点です。

医学界の腐敗も、おそろしいものがあります。

人の命がかかっているのに、しょうもない派閥争いをする。そこには医者即ち聖職という考えは通じません。人命を賭した権力争いなのです。

世紀の発見につながるペスト研究隊にせよ、ペストに罹りで死にかけた人間がいる中、派閥争いをしています。

まったくもって、洒落になっておりません。

野口の生涯は、泣ける伝記映画になります。

実際に存在しています。

 

しかし北里柴三郎の場合は『白い巨塔』系の腐敗を暴く、そんな作品になることでしょう。

晩年のスキャンダルも、厳しいものがあります。

紙幣の顔はなぜドラマにならないのか?

その理由は明らかなこと。

ただし、これは北里本人の資質のせいだけとは言い切れません。

北里柴三郎を受け入れられず、批判する生意気な人物だとスポイルし、排除に動いた組織。

医学会の腐敗。

明治政府の派閥争い。

日本の暗部が、そこにはあります。

北里柴三郎の功績に、文句を言えるはずがありません。

しかし、彼を讃えるだけではなく、医学界の暗部や派閥争いの愚かしさといった、北里を苦しめた力のことも、考えていきたいものです。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
福田眞人『ミネルヴァ日本評伝選 北里柴三郎』(→amazon
『国史大辞典』

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