こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【北里柴三郎】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
栄誉と対立、そして移管騒動
北里の栄光は、続いていきます。
研究者としての誇りだけではなく、名誉や名声も喜んだ北里柴三郎です。
各国政府、学会から名誉会員といった称号と栄誉を受け続け、明治39年(1906年)には帝国学士院会員にまでのぼりつめます。男爵として爵位を得ました。
しかし男爵として宮中晩餐会に招待されても、参加しなかったそうです。
内心、自分より上だと認めたくない相手が、席次が上だと不愉快だったのだとか。
そんな北里柴三郎にとって、絶対に認められない自体が起こります。
大正3年(1914年)、大隈重信内閣が突如、伝染病研究所を内務省から文部省へ移管、東大の組織下に移すことを発表したのです。
これまでもそんな話はありましたが、北里柴三郎が断固として反対していました。
それを受けてか、青天の霹靂のような決定であったのです。
長年の敵対関係である東大の軍門にくだれということ。しかも不意打ちです。これに北里が納得できるはずもありません。
北里柴三郎は反対し、彼と全職員30名が辞職するという強硬手段をとったのでした。
辞職した職員は「赤穂義士」と呼ばれたとか。
ただの美談でもありません。
関係者に自殺者は出るわ、北里柴三郎には公費横領疑惑がかけられるわ(冤罪)。
大騒ぎとなります。
東大にしてみれば、研究所だけではなく研究者も欲しかったことでしょう。ゆえに大変な挫折となったのです。
武士の国替えのような、すさまじい事態でした。
北里柴三郎は、私財をもって北里研究所を創立、生涯所長を務めています。
そして東大附属伝染病研究所と北里研究所は、しばらく対立が継続。研究の際には恨みを忘れて協力することはありましたが、基本的には犬猿の仲です。
関係が改善したのは、恩師・長与の子である長与又郎が第四代所長となってからのこと。
あの北里柴三郎も、恩師の子には礼を尽くしたかったのでしょう。
彼は恩義に篤いところがあり、困窮していたコッホ未亡人を金銭的に援助していました。
さらには福沢諭吉への恩義に報いるため。福沢の慶應大学医学部創設にも尽力。
大正6年(1917年)の医学部創設に際して、医学科長に就任しました。
晩年の苦悩
貴族院議員、大日本私立衛生会会頭、日本医師会会長、第6回極東医学会会頭等など。
華々しい経歴を持つ北里柴三郎の晩年を苦しめたのが、我が子のスキャンダルでした。
大正14年(1925年)、長男・俊太郎が芸者と心中事件を起こし、相手だけが亡くなってしまったのです。
北里柴三郎は癇癪持ちであり、我が子を怒鳴りつけることもあったものの、子煩悩なところもある四男三女の父でした。しかし、マスコミとその読者はそうは思いません。
一連のスキャンダル報道で、北里家の家庭事情が赤裸々にスクープされてしまったのです。
「家庭内不和! 暴君のような父に悩んで心中か?」
「芸者遊びは父譲りなのか? そのスキャンダラスな下半身」
こんな論調が広がり、北里の恥部まで、明らかにされてしまうのです。
性格的に似た者同士であり、かつ恩義のある福沢ですが、実は北里柴三郎は彼を怒らせています。
その原因は女性関係でした。この点においては、両者は一致しないのです。
北里柴三郎は優等生でもなければ、聖人でもありません。
当時はステータスシンボルとして、芸者と遊び、妾を持つことは当然のこと。それを実行してしまった北里に、福沢は苦言を呈しています。
福沢は、日本人男性のゆるすぎる貞操論を繰り返し批判しています。当然の帰結でしょう。
そんな恥部が、我が子のスキャンダルで暴かれてしまったのです。
しかも、彼は男爵位を継ぐべき嫡男。華族の品位を傷つけるものして、重大深刻なものと受け止められました。
以降、北里家の業績は次男である善次郎が継ぐこととなります。爵位は父の死後返上しておりました。
そんな中、北里柴三郎は自らの研究所所長以外の職を辞職します。
慶應大学からは慰留されておりますが、師匠への恩義を語る弟子たちに、北里は涙したものです。
そうした最中心労がたたったのか、事件の翌年には妻・乕(とら)が急逝。
享年57。
それから5年後の昭和6年(1931年)、北里本人も自宅で脳溢血により死去。
享年78。眠るような最期でした。
新紙幣の顔である北里柴三郎
医学に尽くした聖人のようなイメージがありますが、実は熱血肥後もっこすであり、生涯東大と戦い抜いた闘志の人でもありました。
こうして辿ってくると、なぜ弟子である野口英世が取り上げられるのか、見えてくるものがありませんか。
彼の過激な言動と比較すると、留学費用で芸者遊びをした野口が子供のやんちゃに思えるほど。
本稿ではそこまで詳細には書いておりませんが、北里柴三郎の女性関係はかなりのものです。
福沢が苦い顔になっても不思議は全くありません。
野口は洒落になる。北里柴三郎はそうではない。これは重要な点です。
医学界の腐敗も、おそろしいものがあります。
人の命がかかっているのに、しょうもない派閥争いをする。そこには医者即ち聖職という考えは通じません。人命を賭した権力争いなのです。
世紀の発見につながるペスト研究隊にせよ、ペストに罹りで死にかけた人間がいる中、派閥争いをしています。
まったくもって、洒落になっておりません。
野口の生涯は、泣ける伝記映画になります。
実際に存在しています。
しかし北里柴三郎の場合は『白い巨塔』系の腐敗を暴く、そんな作品になることでしょう。
晩年のスキャンダルも、厳しいものがあります。
紙幣の顔はなぜドラマにならないのか?
その理由は明らかなこと。
ただし、これは北里本人の資質のせいだけとは言い切れません。
北里柴三郎を受け入れられず、批判する生意気な人物だとスポイルし、排除に動いた組織。
医学会の腐敗。
明治政府の派閥争い。
日本の暗部が、そこにはあります。
北里柴三郎の功績に、文句を言えるはずがありません。
しかし、彼を讃えるだけではなく、医学界の暗部や派閥争いの愚かしさといった、北里を苦しめた力のことも、考えていきたいものです。
あわせて読みたい関連記事
勝や榎本にケンカを売った福沢諭吉~慶応創始者の正体は超武骨な武士
続きを見る
安政の大獄は井伊直弼が傲慢だから強行されたのか? 誤解されがちなその理由
続きを見る
不平士族の反乱はなぜ連鎖した?佐賀の乱→神風連の乱→秋月の乱→萩の乱→西南戦争
続きを見る
実は遊び人だった野口英世と彼を支えた人々――偉業は一人にして成らず
続きを見る
天狗倶楽部が大河いだてんを盛り上げる!日本初のスポーツ倶楽部とは?
続きを見る
手を洗わずに手術や出産をして死者多数の時代~アメリカ大統領も死んでいた
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
福田眞人『ミネルヴァ日本評伝選 北里柴三郎』(→amazon)
『国史大辞典』