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【最後の箱根駅伝・幻の第22回大会】
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箱根から、戦場へ
この年、日本の戦況は悪化の一途をたどりました。
それまで猶予されていた学生にまで、召集令状が届くようになり、次々に戦地へ送られていきます。
南洋の密林を彷徨い、餓死した者。
酷寒のシベリアに抑留された者。
特攻隊員となり、偶然から命を拾った者。
戦地にあっても、陸上部の仲間のことや、箱根のことを日記に記した者もいました。
厳しい捕虜生活を生き抜くため、鍛えた肉体が役立った者もいました。
駅伝と違って、彼らの走った道は、必ずしも往復路があるわけではありません。
復路をたどり復員した者もいれば、死へ向かう往路だけを辿った者もいたのです。
箱根駅伝の復活
昭和20年(1945年)夏、日本は敗戦を受け入れました。
そしてその2年後の昭和22年(1947年)、箱根駅伝は復活を果たします。
その大会には、昭和18年大会を走った選手たちの一部も、参加することができました。
戦地で罹ったマラリアの後遺症の影響を受け、疲労困憊のあまりゴール直後倒れる選手もいました。
それでも、彼らの感慨はひとしおでした。
今度の大会で、ゴールの向こう側に待っているのは戦場ではありません。
ひたむきに走る幸せを、彼らは噛みしめました。
戦争の苦しみから解き放たれ、のびのびと競技を楽しむ若者の姿が、そこにはあったのです。
戦後、昭和18年の大会は正式な大会としては認められませんでした。
戦争と死の影に覆われた同大会は、写真すら残されておらず、参加者も多くを語りませんでした。
コースも異なり、事情もあまりに他の大会とは異なる――そんな昭和18年大会。
参加者たちはやがて重い口を開き始め、開催するのも参加するのも困難極めたあの大会を語り始めました。
地道な活動が実り、正式に認められたのは昭和35年(1960年)のこと。
現在では第22回大会として、記録にも残されるようになりました。
◆箱根駅伝公式サイト 第22回大会結果(→link)
戦争の影に覆われた中、走ることへの情熱と機転で大会を開催し、駆け抜けた若き選手たち。
彼らの思いを知ると、改めて驚かされます。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】