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あさが来たモデル・広岡浅子はドラマより史実の生涯69年の方が豪快だ

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あさが来たモデル・広岡浅子
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ご一新で大阪経済大混乱や!

浅子が嫁いだ先の信五郎は、肩を突いただけで倒れてしまいそうな「つっころばし」タイプと言いましょうか。

おっとりしていて、遊ぶことが大好き。そんな人でしたから、しっかり者の父・加島屋当主の正饒が、動乱の世をなんとか生き延びようと奮闘します。だからこそ信五郎もノホホンとしていたのかもしれません。

しかも、嫁いで来た嫁は男勝りで気が強い。まさに彼にとっては願ったり叶ったりです。

「浅子にはかまいまへん」

動乱の最中、彼はそう言いながら浅子に頼ってきたようなものでした。

慶応年間の日本は、急速に維新へと突き進んでゆきます。

商人もこれに乗っかることになります。

ところが、です。

倒幕を目指す西軍には、軍資金がありませんでした。

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明治以降もしばしば問題となった、商人と明治政府の結託はこの辺りから始まっておりました。

浅子の実家である三井家も、こうした商機にノッた成功例の一つです。

鳥羽・伏見の戦い】はじめ、軍資金を提供し【政商・三井】としての道を歩みだすのです。

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稼業の呉服業は、分裂して「三越」となり、百貨店事業に乗り出しました。

しかし、京大阪の商家にとって、新政府の要求は無茶苦茶でもありました。

金を出せば、苗字帯刀すら許すと言われる一方、金を出し渋れば「逆賊め!」と罵倒され、脅されたのです。

 

【銀目廃止】でますますアカン!

新政府の意向で、大阪経済に大打撃を与えたのが「銀目廃止」でした。

読んで字の如く【銀の貨幣を廃止】するというものです。

確かに、政策としては真っ当な在り方ですが、それまで銀で商売をしてきた大阪や京都にとっては、降って湧いた大災難でしかありません。

流通停止に伴い「銀札」が紙くずになるのでは?

そんな風に思った人々がパニック状態になって、商家にドッと押し寄せたのです。

必然的に銀相場も大暴落。商家の金銀は底を尽き始め、この衝撃を乗り越えられない家は潰れるほかありませんでした。

さらに廃藩置県も大きな痛手でした。大阪商人に借金をしていた大名家が消えてしまい、言わば借金チャラにされてしまったのです。

大阪経済は、息も絶え絶えになるほどの大打撃を受けました。

こうした混乱の最中、浅子の義父・正饒も亡くなってしまいます(慶応4年・1868年)。

信五郎は養子であり、当主は数えで26歳の正秋。勢い戦力となったのが広岡浅子でした。

維新動乱の最中、彼女は加島屋のために立ち上がりました。

宇和島藩が借金を申し込んできた時、藩邸にまで乗り込みました。

「これ以上は貸せない!」

そう言い張る浅子は、足軽部屋に監禁されてしまいます。

ただし、一晩経っても意気軒昂な浅子を見て、宇和島藩も「この若奥様は説得できない」と折れます。

浅子がいかに豪快で、度胸があったか。

幕末に戦っていたのは、武士だけでもなければ、男性だけでもなかったのです。

 

岐路に立った加島屋

大阪の商人は、明治維新を契機に岐路に立たされます。

今までの大名貸しは成り立ちません。新たな産業を模索せねばならんのです。

これを終わりの始まりとみなすか、新たな道とみなすか? 広岡浅子が選ぶ道は、後者に決まっています。

目を付けたのが、炭鉱業でした。

政府とつながりが深い実家の三井物産は、既に炭鉱経営に着手。浅子も、信五郎を名目的なトップとして「広炭商店」の経営に乗り出します。

炭坑の他にも、加島屋は様々な改革に取り組みます。

年表で追ってみましょう。

◆明治19年(1886年) 広炭商店を設立。翌明治20年(1887年)には潤野炭坑(福岡県飯塚市)を買収します。炭鉱業で賑わう筑豊に、浅子が先鞭をつけたことになります。

◆明治21年(1888年) 加島銀行開業。頭取は正秋で相談役に信五郎。

◆明治22年(1889年) 尼崎紡績開業。信五郎が役員に就任。

◆明治25年(1892年) 日本綿花株式会社設立(のちにニチメン、現在の双日に繋がる系譜)。信五郎が関与。

浅子も懸命に働きましたが、役職はなし。それというのも、明治時代においては女性の活躍に制限があったからです。

当時の理想は、夫唱婦随でした。

明治維新で世の中が変わったとはいえ、男女の感覚はまだまだ変わりません。

明治31年(1898年)発布の民法で定められたところによれば、女性は「無能力者」であり、財産所持や契約締結ができないのです。

江戸時代には「化粧料」のような女性名義の財産があり、明治は、ある意味、後退の時代です。

彼ら明治政府が参考にした「ナポレオン法典」は、法体系としては優れていながら、ナポレオン個人の男尊女卑に基づく価値観が反映されており、現在では女性の権利を制限したものとして批判対象とされます。

西洋由来の考えを取り入れたところで、女性の権利が進歩するとは限らなかったのです。

ちなみにナポレオンの女尊男卑傾向に反発した女性知識人にスタール夫人がおりました。

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ピストル忍ばせ炭坑へ

1894年の日清戦争に勝利した日本は、更にこれからだ!と勢いに乗り出します。

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このころ浅子は、九州は筑豊の潤野炭坑まで出向きました。

洋装で、胸にはピストル。

当時の人々は「後家さんが炭坑を始めた」と信じていました。

未亡人でもなければ、あんなに出しゃばる女はいないだろうというわけです。

炭坑内部に乗り込み、坑道開削の監督までこなす浅子。

そのお陰で、明治27年(1894年)に56人だった炭坑労働者数が、明治30年(1897年)には268人にまで増加します。

官営八幡製鉄所/wikipediaより引用

絶好調の潤野炭坑を、明治32年(1899年)、浅子は官営八幡製鉄所に売却しました。

日清戦争後の好景気で、高く売れたのです。

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