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ドラマより史実の方が豪快だった広岡浅子『あさが来た』モデル69年の生涯

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あさが来たモデル・広岡浅子
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浅子の家族とプライベート

ドラマ『あさが来た』では、浅子の事業だけではなく家庭生活も描かれます。

ただし、フィクション部分が多くなっております。

一つずつ確認して参りましょう。

 


◆夫に妾を薦めるシーンの真実は?

ドラマでは、信五郎が妾を持つかどうか、浅子が心を痛めております。

が、史実はもっとアッサリしたもので、実家からついて来た使用人女性の小藤を、夫の妾として勧めたほどです。

そんな浅子に、周囲は驚いたのだとか。

小藤は万事控えめな女性でした。

夫と小藤との間に生まれた子を、浅子は分け隔てなく育てたそうです。

浅子の実子は、女児の亀子のみ。

男児を産むまで家にいるよりも、小藤に出産育児を任せて事業に励みたかったのかもしれません。

 


◆娘の亀子はどんな性格?

劇中では千代という名前でした。

働く母親に反発することもある気の強い性格としてドラマに登場してましたが、それはあくまでフィクション。

おとなしい女性で、浅子が頼りなさを感じるほどだったとか。

彼女は、一柳子爵家の恵三を婿養子として取り、この恵三が広岡家の後継者となっています。

 

◆五代様との出会いは?

ドラマではディーン・フジオカさん演じる五代友厚がことのほか活躍します。

史実の広岡浅子の人生においても、接点がまったくなかったわけではありません。

しかし、そこまで濃密な交流はない。

明治期の大阪を支えた人物として、ドラマを彩るために登場したようです。

五代友厚/国立国会図書館蔵

 


◆キリスト教洗礼

浅子は晩年、キリスト教の洗礼を受けております。

成瀬との交流を考えますと、妥当なところでしょう。

宗教に打ち込んでからは、囲碁のような娯楽趣味をやめてしまったようです。

晩年は、キリスト教婦人会の活動を熱心に行っておりました。

 

◆『花子とアン』とのつながり

後進女性の育成に力を注いだ浅子。

静岡御殿場における合宿会場には、村岡花子の姿もありました。

朝ドラ主人公が、朝ドラ主人公を育てたのです。

そして大正8年(1919年)1月14日、浅子は腎臓炎で亡くなりました。

享年69。

晩年まで、女子教育とキリスト教婦人会の活動に尽くしています。

彼女が執筆活動の中で用いたペンネームの「九転十起生(きゅうてんじっきせい)」。

七転び八起きどころか、9回転んでも10回立ち上がるというその名に相応しい、真っ直ぐで波乱万丈の生涯でした。


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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
小前亮『広岡浅子 明治日本を切り開いた女性実業家 (星海社新書)』(→amazon
歴史読本編集部『広岡浅子 新時代を拓いた夢と情熱 (新人物文庫)』(→amazon

【TOP画像】
『広岡浅子 新時代を拓いた夢と情熱 (新人物文庫)』(→amazon

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