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【ハワイ日系移民の歴史】
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第二次世界大戦中の待遇は米本土と異なっていた
その後、在日ハワイ総領事ロバート・W・アーウィンが日本とハワイ両方から莫大な仲介料を得てボロ儲けしていたことが発覚。
明治政府はアーウィンとの仲介料の交渉がうまく行かず、官約移民制度を廃止してしまいます。
以降は民間の会社が「私約移民」として事業を行い、ちょっとしたビジネスになってゆきました。
ところが、です。その後のハワイと日本の協約や法律の変更により、1924年には私約移民も不可能になっています。
つまり、現在ハワイに居る日系人には、1924年以前の移民の子孫が多いということになるでしょう。
そうした事情もあってか、ハワイの日系人は、他の国への移民と多少異なるポイントが二つほどあります。
どちらも第二次世界大戦中のことです。
一つは、アメリカ本土で排日移民法が採択されてからの待遇です。
アメリカ本土や南米の一部では、日本人と日系人が強制収容所に入れられ、過酷な環境や差別にさらされました。
しかしハワイでは、狭いエリアの割に比して日系人が多すぎて、もし収容すると労働力が激減&物理的に収容できないことが予測されたため、ほとんどの人は収容されずに済んでいます。
※1939年時点での日系移民は150,399人(米本土は272,517人)
もう一つは、アメリカ陸軍の伝説・第442連隊戦闘団のことです。
日系一世が大事にしていた価値観とは?
第442連隊戦闘団は日系人から成っており、ハワイの出身者も多くいました。
当時、アメリカ本土とハワイにおける日系人の人口はさほど変わらなかったそうなのですが、志願者はハワイのほうが圧倒的に多かったとか。
ハワイ・オアフ島にある「ハワイ日本文化センター」では、この辺のことを日系人の方が説明してくださるツアーを行っているそうです。
ハフィントンポストにレポートがあったので、リンクを張っておきますね。
◆ハワイ日本文化センターで知る日系人の歴史(1世、子どものために)―「ハワイと日本、人々の歴史」第11回(→link)
ついでに一部を引用させていただきます。
孝行、恩、我慢、頑張り、仕方がない、感謝、忠義、責任、恥、誇り、名誉、義理、犠牲... これらは、日系1世の人々が大事にした価値観です。
より良い生活を求めてハワイに渡り、大変な困難の中、汗にまみれて働きぬいた1世の人々の、つつましいながらも誇りある生き方がじわじわと胸に迫ります。
特に「仕方がない」という言葉は、当事の大変な暮らしを思い起こさせるものでした。
上記の経緯、特に労働条件からすると「仕方がない」という言い回しは移民一世の口癖のようになっていたのかもしれませんね。
日系人の志願兵が多かった理由も、「忠義」「名誉」などの言葉が語り継がれていたのでしょう。
ハワイといえば海やショッピングを楽しむ方が多いかと思いますが、たまにはこういった施設を訪れ、歴史に触れてみるのも良いのではないでしょうか。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
HUFFPOST(→link)
◆世界平均給与ランキング、日本は衝撃の順位に、アベノミクスが原因!?(→link)
ハワイにおける日本人移民/wikipedia