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【殖産興業】
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「先生という名目で来た西洋人に生き血をすすられる」
こうして作られたのが、近年、世界遺産にもなった【富岡製糸場】などの紡績工場です。
富岡製糸場の最初期に働いていた武家の娘の日記である『富岡日記』(→amazon)には、当時の日本人女性の多くが意欲的に働こうとしていたことが見て取れます。
おそらくは、「お国のために」といった愛国心よりも、「外国みたいに豊かになって、家族が食べていくのに困らない生活がしたい」という気持ちが大きかったのでしょうね。
富岡日記の著者は元々武家の出身だからか、愛国心が強そうな記述もありますが、一般の女性でしたら、より生活を重視した見方になっていておかしくありません。
最初のうちは
「先生という名目で来た西洋人に生き血をすすられる」
などのおどろおどろしい噂も立っていたようですが、そのうち“給料が良い”というようなオイシイ噂のほうが優勢になったとか。いつの時代も似たような話がありますよね。
富岡日記は文庫版が出ていますので、ご興味のある方はお手にとってみるのも良いかと。
また、富岡製糸場にある程度の期間勤めた後、故郷に帰って紡績機などの扱いを教える先生になり、各地の紡績業発展に貢献した人も多くいました。
理想的なUターンといえるかもしれませんね。現代でもこういうやり方ができればいいのですが。
割とスンナリ導入された牛乳文化
繊維業の他には、農業や牧畜などが進められたのも内務省の担当していた時期です。
農業では北海道開拓と札幌農学校を含めた農学校の設置が主となりました。
牧畜では、古くから続く軍馬や使役用の牛を飼っていた農場を、肉や牛乳を取るための牧場に作り変えたり、元々牛を飼う技術・知識を持っていた人が別の場所で酪農を始めたりしています。
実は、幕末から牛乳の生産はごく一部で始まっていましたので、拡大化についてはさほど障害がなかったようです。
文明開化でお馴染みの牛鍋や牛乳の飲食が広まったのも、国内で肉牛や乳牛の生産が安定化したからだといえるでしょう。
一方で、製糖業などは外国との価格競争に押されて苦しい状況に陥りました。
まあ、全てがうまくいくなんてことはありえませんからねぇ。
明治十四年(1881年)からは、農商務省が内務省の方針を引き継ぎ、問題点を解消していく方向に移ります。
官営施設の経費削減や民間への払い下げが行われるようになったのも、この時期でして。
三井や三菱などの豪商が主な買い手となりました。
また、農業については老農(農業の研究者)による相談会・巡回などを行い、効率化や生産量増加を図っています。
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