荒々しい益荒男である東日本の男。
しなやかな色気のある西日本の女。
そんなジェンダー観があらわれた言葉ですが、単純に優劣をつけるだけでなく、関東の男性が関西の女性に惚れ込んでしまうことを、こう呼んだこともありました。
『鎌倉殿の13人』において、この言葉がふさわしいカップルといえば、北条時政と牧の方でしょう。
牧の方とは、劇中では「りく」とされる女性で、北条義時の父・時政の後妻として伊豆へやってきた。
彼女(宮沢りえさん)の妖艶さに時政はデレデレしっ放しで、数々のトラブルを引き起こし、気が付いたら二人で鎌倉を追われてしまう。
いかにも悪い女でしたが、史実ではどうだったのか?
1215年2月6日(建保3年1月6日)は夫の北条時政が死没した日。
頼朝の死後に一大事件を巻き起こし、悪女呼ばわりもされる、牧の方の生涯を史実から振り返ってみましょう。
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京女・りく(牧の方)は衣装も異なる
言うまでもなく『鎌倉殿の13人』はフィクションです。
ドラマですから、視聴者が登場人物を見た瞬間にわかりやすい格好をしており、風俗考証の佐多芳彦さんは、りく(牧の方)については、こう説明していました。
りくは貴族の家の娘のスタイルですね。だから「桂重ね(うちきかさね)」で、下に袴をはいている。
これは貴族の家の娘の格好で、りくさんは出身が貴族ですから、坂東へ来ても貴族の格好だろうという設定をしています。
出身を明確に示そうという意図です。
【公式サイトより引用(→link)】
比較対象としてわかりやすいのが時政の娘・北条政子でしょう。
小袖に湯巻(エプロンのようなもの)をつけているのに対し、貴族のりく(牧の方)は異なります。
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歴史的に見て、上流女性の服装は、時代が降り、生活が豊かになるにつれ「動き辛く」なってゆきました。
一言で表すなら非効率。何かあれば走れないし、逃げることすらできない。そもそも危険が及ぶことなどもなく、家事にも関わりません。
要は、男性主人を喜ばせるため華美な服装をすることがステータスシンボルとなるのです。
では、りく(牧の方)はどうだったのか?
大豪族とは言い切れない北条館に、彼女のような女性がいるだけで、北条家そのものの価値は上がります。
時政が自慢しているとすれば、それは美貌だけではなく、贅沢なものを手にしているという誇りでもあったのです。
むしろ、りくが政子と同じ服装をして、家事や山歩きをしたらガッカリ。
彼女は動けないからこそ、夫の庇護が重要になっています。
そんなりく(牧の方)は、史実でどんな出自だったのでしょうか。
時政との間で一男三女に恵まれ
牧の方は、牧宗親の親族とされます。
牧宗親の娘であるという説もありますが、『吾妻鏡』では妹とされています。
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生年は不明。
ただし、保延4年(1138年)生まれの夫・時政とはかなり歳が離れていて、それでも仲睦まじかったと伝わります。
二人は、一男三女の子に恵まれました。
夫である時政に妻が何人いたかはハッキリしません。
複数名いたと考えられ、北条宗時、北条義時、阿波局(劇中では実衣)の母が伊東祐親の娘とされますね。
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政子ら他のきょうだいは、母が異なるとみなされています。
では、時政と牧の方の息子である北条政範と、主人公・北条義時の年齢差を比較してみますと……。
義時は長寛元年(1163年)で、政範は文治5年(1189年)生まれですから26歳の差。
ほとんど親子の年齢差であり、保延4年(1138年)生まれで51歳だった時政にとって政範は、孫のような子でした。
それはもう可愛らしくてたまらなかったことでしょう。
時政は、娘のような年齢の妻に癒され、孫のような子に恵まれた――それだけで済んでいれば、牧の方も他の妻と同様、歴史の陰に埋もれていたのではないでしょうか。
しかし、そうはなりませんでした。
政子「あの女を邸ごとぶっ壊せ!」
牧の方の名前がハッキリと出てくる事件として【亀の前騒動】があげられます。
この事件は経緯を追いかけるだけでも、あまりにしょうもない話ですが、見て参りましょう。
源頼朝も、牧の方と同じく、京から来た男。
つまり、頼朝と政子の二人は「京男と東女」とも言えるわけで、男女の価値観の違いが出てしまったのが、この亀の前騒動です。
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治承4年(1180年)冬――源頼朝と懐妊中の政子夫妻は、鎌倉に居を定めました。
そして寿永元年(1182年)8月12日に嫡男が誕生。
万寿と名づけられたこの子は、後の二代将軍・源頼家です。
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源氏の嫡流を出産――として政子が頼家を産んだ比企谷殿は、さぞかし華やかな空気に包まれていたことでしょう。
そんなとき、牧の方の耳にある噂が入ります。
頼朝が、出産を控えた妻の陰で亀の前という女性を寵愛しているとか。
実際に二人は、治承5年(1181年)春頃から関係を深めていて、頼朝は鎌倉まで呼び寄せていました。
当初は海沿いに置いていたものの、政子の出産が近づくと、飯島にある伏見広綱邸にまで移していたのです。
ようやく出産を終えて幸せな政子。
そんな彼女に、牧の方は夫のゲス不倫を伝えてしまいます。
牧の方は何を考えていたのか。
単純な善意? 嫌がらせ?
真意はわかりませんので、ドラマ『鎌倉殿の13人』では好きなように処理ができます。
動機は不明なれど、京女である牧の方が、政子を甘くみていた可能性は否めません。
参考にしたいのが『源氏物語』。当時の京女の精神性を描いた作品で、紫の上という女性が登場するのは有名ですね。
紫の上は、最愛の光源氏が他の女を愛して子を為しても、じっと耐え忍ぶしかなく、次第に鬱に悩まされ、出家を願うようになり、ついには命を落とす――と、いうように心が繊細で、源氏物語では命を縮める女性ばかりが登場します。
男性に復讐しようにも、生き霊を飛ばすぐらいしか手段がない。
しかし、政子は違います。
とびきり猛々しい東女であり、彼女は、牧の方の親族である牧宗親を呼びつけ、こう命じました。
「あの女を邸ごとぶっ壊せ!」
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