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【岩崎弥太郎】
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東洋の暗殺
その後、先祖が売り払った郷士の株を買い戻し、結婚も果たした弥太郎。
再びのチャンスに備えるのですが、このタイミングで土佐藩に激震が走ります。
文久2年(1862年)4月8日、吉田東洋が反発勢力に暗殺され、土佐勤王党を率いた武市瑞山ら尊王攘夷派の勢力が藩の実権を握ってしまったのです。
東洋派の弥太郎(28歳)にとっては最悪の展開……と思いきや、待っていたのは意外な展開でした。
弥太郎は、後藤や福岡のように「東洋派の中心人物」でもなく、あくまで派閥の一人に過ぎなかったため、目の敵にされることもなく、逆にその頭脳や経験を買われて、藩主・山内豊範の江戸行きで同行を命じられたのです。
ところが、ところが……。
弥太郎は上洛途上の大坂で「規律違反」を犯したため、強制帰国に追い込まれます。
この一件について詳細は不明です。
東洋の暗殺犯を捜索するため隊列を離れたとか、自由行動の許しが出たと勘違いして失態をしてしまったとか。理由については諸説あり、いずれにせよ地元への強制帰国を強いられます。
しかし能力そのものは、やはり買われていたのでしょう。
弥太郎は井ノ口村で家の再建に尽力し、慶応元年(1865年)には3つの郡を統治する奉行職に命じられました。
奉行を辞した後には、富国強兵を推し進めるため長崎開成館という施設に出仕し、いよいよ31歳、彼の生涯も軌道に乗る……と思いきや、またもや弥太郎の自由な性格がクビをもたげます。
「性に合わないから」という理由から、わずか40日で同職を辞めてしまうのです。
なんだ、この堪え性のない性格は……本当に三菱財閥を創った男なのか?
思わずそんな心配をしてしまう程、奔放な弥太郎ですが、もちろんこのままでは終わりません。
直後、本当の意味で人生の転機を迎えます。
辞めたばかりの長崎開成館で、事実上のトップとして再雇用されたのです。
長崎開成館で才能を開花させる
逃げたばかりの人間を再び雇う……しかも責任者として。
「どうしてそうなった???」と言いたいところですが、この時期の土佐藩は権力が目まぐるしく移り変わり、当時は武市ら尊王攘夷派が藩政から一掃され、山内容堂や後藤象二郎が再び実権を握るようになりました。
これが弥太郎に良い方向で影響します。
長崎開成館は、富国強兵のため後藤が設立したものですが、自身は政治活動も忙しく、組織の誰かに運営を任せようと考えていました。そこで頭脳明晰な弥太郎に白羽の矢が立ったのです。
「思うところがあるからいやじゃ!」と弥太郎は強硬姿勢を見せるも、後藤に派遣された福岡孝弟から「応じんなら処分もあるぜよ」と半ば脅され、やむを得ず長崎出張を受け入れるしかありません。
そもそも長崎開成館は、土佐が激動期を生き抜くため重要機関として設立されたもの。
長崎における貿易の窓口だけではなく、坂本龍馬率いる海援隊との交渉役などもあり、非常に重要な役割を担っていました。
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弥太郎も、その重要性に気づいたか。あるいは責務の重さがかえって良かったのか。
慶応3年(1867年)には大政奉還が実現して、肝心の龍馬も暗殺されてしまいますが、
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弥太郎(33歳)の仕事ぶりは順調で、外国商人との交渉やそのために先立つ金策で成果を上げると、多くの人にその能力が認められていくようになりました。
武士より貿易が性に合っていたのでしょう。
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相次ぐ開港によって貿易の中心地も長崎から関西へ移り、弥太郎もまた土佐藩が新しく設立した大阪商会へ移動。
商売人というより、どちらかといえば経済官僚としての経験を積んでいきました。
仕事も拡大し、その出世っぷりは止まりません。
開成館から分離する形で生まれた新たな組織「九十九商会」のトップに就任。
あらためて才覚を発揮する機会を与えられたかのように思えましたが、ここでもまた時代の波に翻弄されます。
明治3年(1870年)の廃藩置県によって職と身分を一気に失ってしまうのです。
このとき36歳でした。
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三菱の起点となる「三ツ川商会」の設立
廃藩置県の狙いは「藩」という分権的な組織を「県」として整理し、中央集権化を図ることです。
弥太郎が率いていた九十九商会は、土佐藩の色濃い組織であり、政府にとって好ましい存在ではありません。
いきおい閉鎖の方向へと進みそうになりますが、これに旧土佐藩士たちが反発。
今後の日本は貿易によって利を産まねばならず、ノウハウを積み上げてきた組織を潰すことは国力の低下を意味します。
潰してしまうぐらいならば、いっそのこと弥太郎の「私企業」として残した方がよいのではないか?
一方、そんな打診を受けた弥太郎はかなり迷ったようです。
もともと商人でもない彼は「明治新政府の官僚になって海外で見識を深めるのもよい」と考えでした。
しかし、最終的には「海運一本で行く!」と決断、組織名を「三ツ川商会」と改めます。
部下になった三人(川田小一郎・石川七財・中川亀之助)に共通する「川」という文字をとって、この名称を選んだとされ、三菱の象徴であるスリーダイヤのロゴが誕生したのもこの頃でした。
ちなみに、三人のうち石川は、土佐藩士時代に弥太郎の動きを警戒した藩内の敵対派閥から送り込まれた刺客でした。
弥太郎は、その石川に対し「そんな、くだらんことやってないで私と一緒に仕事をしないか? これからは海運・貿易の時代だろ」と誘い、スカウトに成功したと伝えられます。
新会社・三ツ川商会は、土佐藩所有の藩船を払い下げられることで海運業に乗り出しました。
政府色の強いライバル・日本国郵便汽船株式会社に比べ、三ツ川商会は必ずしも破格の安さとはいえない価格で船の払い下げを受けたようです。
加えて弥太郎は「多忙のため、県に適任者がいれば船を返します」と言っているほどで、この頃は内心まだ迷いがあったのではないかとも指摘されます。
同社や弥太郎に、大きな転機が訪れたのは明治6年(1873年)のことです。
39歳の弥太郎は社名を「三菱商会」と改め、本拠地を東京に移転。
部下に任せきりだった体制を刷新すると、その後は、よく言えば規律のとれた、悪く言えば強権的な弥太郎の経営が幕を開けたのでした。
「政商」として海運業の覇権を握る
当時、太平洋の海運業は、アメリカ資本の「パシフィック・メイル社」が牛耳っていました。
彼らは明治政府に対し、日本近海における海運の委託も求めるようになります。
こうしたアメリカの要求に対し、日本は次第に国産の海運業者を育てようという気になります。
国のバックアップを受けた日本国郵便汽船株式会社が有力候補に挙げられたのですが、同社は国有企業ならではの放漫経営がアダとなり、大量の赤字を垂れ流していました。
一方、社名を「三菱郵便株式会社」として海運に乗り出した弥太郎も、創業当時はなかなか軌道に乗ることができません。
それでも地道な成長を続けていると、明治7年(1874年)、政府による「海運業保護政策」の対象会社となるのです。
政府から助成を受けた三菱は、業績を急拡大させていきますが、同時の当時の政府は「弥太郎は本当に信用するに足る人物なのか?」と疑いの目を向けていました。
そこで弥太郎の元へ出向いたのが、内務省・大蔵省の前島密(まえじまひそか)です。
前島密は弥太郎に問いかけました。
「海運の経験はないようだが、大丈夫なのか」
「確かに経験はありませんね。ただ漢の高祖だって指揮官の経験はないのに有能な人材を指揮して大業を成し遂げましたから」
この大風呂敷がイイ! よし君に任せた!
なんて調子でドラマのように決まったワケではありません。
ライバル・日本国郵便汽船株式会社の放漫な経営姿勢より、荷主たちからの評価も厚く、政府の台湾出兵に協力的だった弥太郎に軍配が上がったのです。
結果として三菱は政府の手厚い保護を受けるに至り、競合他社に差をつけることが可能となりました。
いわば「政商」として三菱の発展が約束されたのです。
その後もパシフィック・メイル社の経営悪化や、明治政府による海外資本の排除政策、あるいは西南戦争時の軍事輸送などを経て、日本の海運を完全に独占。
弥太郎は独裁制を敷きつつ、有能な人材を積極的に登用し、江戸以来続いた商慣習を改めることで巨額の利益を挙げるようになりました。
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