岩崎弥太郎

幕末・維新 明治・大正・昭和

なぜ岩崎弥太郎は一介の土佐郷士から三菱財閥を築くことができたのか

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巨大企業・三菱への批判と大隈の失脚

海運を独占することにより「政商」としての地位を確立した三菱。

彼らは政府と結びつき、この頃になると海上輸送にかかわる業務のほとんどに加え、炭鉱業や造船業にまで手を伸ばしていきました。

同時に、巨大化し過ぎたことで、多くの批判にもさらされます。

当時の新聞に「三菱が不当に高額な運賃を徴収している!」と書かれ、以前、政府から大きな支援を受ける際に交わした「海運専念」という条項に反しているとも指摘されました。

批判は収まるどころか過熱する一方ですが、それは弥太郎の失点だけとも言えません。

三菱が政商である以上、「政府を攻撃すること」と「三菱を攻撃すること」は同様の意味を帯びてきます。

要は政争に巻き込まれるわけで。

実際、三菱を一貫して保護してきた大隈重信が、敵対派閥である薩長派に疎まれ、大隈への攻撃がそのまま三菱にも向けられてしまった形跡があります。

そして明治14年(1881年)には【明治十四年の政変】が勃発。

大隈は政権を去り、三菱も最大の後ろ盾を失いました。

弥太郎47歳のことです。

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大隈の失脚によって状況は悪化し、かつては大隈と方向性を共にしていたハズの自由党による「反三菱キャンペーン」も始まりました。

さらに政府は三菱を潰すため刺客を用意するに至ります。

 

渋沢栄一の共同運輸と「仁義なき戦い」

それは明治15年(1882年)のことでした。

「三菱に対抗できる海運企業を!」というスローガンのもと「共同運輸会社」が誕生。

政府からの手厚い支援に加え、品川弥二郎や井上馨といった政治家や当時の有力実業家が協力を表明し、弥太郎は「四面楚歌」の状況に置かれます。

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共同運輸の設立には、あの渋沢栄一もかかわっています。

もともと「道徳経済合一説」や「合本主義」という思想を掲げ、「株式会社」という形態を日本に普及させた彼にとって、利益も責任もすべてを独占するという弥太郎の思想は相いれないもの。

実際、渋沢の証言によると、弥太郎から「合本主義(渋沢の掲げた思想)は船頭多くして山に登るようなものではありませんか」と言われたことがあり、二人はお互いの意見を曲げないまま喧嘩別れしてしまったといいます。

こうした渋沢の姿勢からも分かるように、共同運輸と三菱はまさに「仁義なき戦い」というほかない激烈な競争を繰り広げました。

両社はひたすらにダンピングを繰り返し、どちらも赤字を垂れ流す血みどろの戦いへ。

※ただし近年では、景気の悪化が三菱の経営状態を悪くしたのであり、共同運輸との競争が原因ではないという指摘もあります

いずれにせよ、この消耗戦は、後に残るのが焼け野原でしかないことは誰の目にも明らか。

ゆえに政府側から西郷従道農商務大臣が仲裁役に回り、運賃や出航時刻など、サービスに関する協定を結ばせて事態の鎮静化を図ります。

ところが、です。

協定はすぐさま無視され、戦いは以前より過熱化していったのです。

 

弥太郎の死

過熱する競争の中で経営危機に立たされてしまった三菱。

しかし、そこに弥太郎の姿はありませんでした。

競争真っただ中の明治18年(1885年)2月、弥太郎は胃がんでこの世を去ったのです。

享年51(満50歳)でした。

社長は弟の岩崎弥之助が引き継ぎ、「亡き兄の志を果たす」として、以前と変わらず一歩も譲らない構えを見せます。

この頃には共同運輸の企業体力も限界に差し掛かっており、政府もついに事態の本格的な解決を図ります。

同年4月、政府は三菱・共同の合同会談をセッティング、両社の合併によって海運を一本化することとにしたのです。

こうして誕生したのが「日本郵船」。

現在も日本をリードする会社として知られ、三菱はいったん海運事業を手放すことになりました。

海運事業を手放しても弥太郎が遺した三菱は発展を続けます。

副業で始めた造船・鉱山事業などが大きく伸び、私たちの良く知る三菱財閥(三菱グループ)はこの後に栄華を極めていくのです。

それだけではありません。

合併を機に手放した日本郵船にも三菱出身者が多く在籍しており、次第に三菱グループの中核的な企業と見なされてゆきます。

現代でも、三菱グループの公式サイトでその関連性を確認することができます。

三菱はいったん日本郵船を手放したことによって得た売却益で多角化経営を成功させ、最終的には日本郵船との協力で海運をも手中に収めたのです。

まさに「急がば回れ」というヤツでしょうか。

 

後年になって岩崎家と渋沢は関係を改善した

勉強しては辞め。

働いては辞め。

前半生だけ見ていると、とても大財閥の創設者になるとも思えない岩崎弥太郎

彼が掲げた「得も損もすべてオレが背負う」という発想にしても、賛否が分かれるところでしょう。

しかし、彼と激しく対立した渋沢も、後年になって

「私というよりは私の周りの人たちが弥太郎を憎み、彼からひどく嫌われてしまった。結局生前に仲直りできなかった」

と語っています。

また、渋沢が共同運輸側の意見をまとめ、伊藤博文に弥太郎の悪行を報告した際、伊藤はこう答えたと言います。

「自分を正当化するため他人を非難するというのは、卑怯なやり方ではないか」

このとき渋沢は自分を恥じ、結果、弥太郎の弟である弥之助や川田小一郎らと親しく交際するようになり、三菱のやり方に理解を示すようになりました。

渋沢当人の性格については、外面の良さと、危険な思想や乱れた私生活とのギャップから、多面性あることが知られ、言葉を鵜呑みにすることは危険かもしれない。

しかし、岩崎弥太郎も渋沢栄一も「成功」を収めいてるのは確かなこと。

会社経営には色々な思想があり「他人は他人、自分は自分」というのは、現代にこそ通じる考え方かもしれません。

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文:とーじん

【参考文献】
武田晴人『岩崎弥太郎』(→amazon
小林正彬『岩崎弥太郎』(→amazon
鹿島茂『渋沢栄一』(→amazon
渋沢栄一/守屋淳編『現代語訳 渋沢栄一自伝』(→amazon
三菱グループ「三菱人物伝 岩崎弥太郎」(→link
同「三菱グループ会社・団体検索」(→link

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