【写真左】渋沢栄一とその家族(右端が後妻の兼子)【写真右】先妻の渋沢千代/wikipediaより引用

幕末・維新

女遊びが強烈すぎる渋沢スキャンダル!大河ドラマで描けなかったもう一つの顔

2024年7月3日から新一万円札の顔となった渋沢栄一

大河ドラマ『青天を衝け』で演じた吉沢亮さんがあまりにも爽やかだったため、意外かもしれませんが、実は放送前からこんな懸念がありました。

「大河の主役にしては、あまりにも女遊びが派手すぎやしませんか?」

そしてその懸念が当たったかのように、結婚式で新一万円札、つまり渋沢栄一のお札を使うのは失礼じゃないか?というマナーの問題に発展しているようです。

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これは行き過ぎたマナーというやつなんでしょうか。

確かに歴史というものは、往々にして現代とは価値観が違います。

戦国にせよ、幕末にせよ、夫婦の在り方も今とは大きく異なり、「英雄色を好む」なんて言葉もあるほどです。

しかし、渋沢栄一の女遊びは度を越しており、それは同時代の人物たちからも議論の的になるほどであり、それを認めた本人も周囲にこう漏らしておりました。

「明眸皓歯(めいぼうこうし・明るい目に白い歯、つまり美女のこと)以外は恥じることはない」

この言葉をどこまで信じてよいのか……それはさておき、女性がらみのスキャンダルについて隠すつもりがなかったのは確かです。

では、渋沢の女遊びとはどんなレベルのものだったか?

日本を代表するNHK大河ドラマの主役ですしお札の顔でもあるわけですから、この辺りの事情を包み隠さず振り返ってみるのも一興かと思います。

 

旅の恥は掻き捨て

時は幕末、安政5年(1858年)。

栄一の父・渋沢市郎右衛門は悩んでいました。

まだ若い我が子が、代官の横暴に憤激している。世直しを訴え、近隣の若者と尊王攘夷を唱えている。

これはまずい。身を固めさせて落ち着かせよう!そんな狙いから一つ年下のイトコ・後の渋沢千代と結婚させました。

当時としてもかなりの早婚である満18のことでした。

しかし文久3年(1863年)、栄一は止まらず、攘夷テロ計画、妻子を残し上洛することとなります。

そして、この時点からいきなり“行動”に出ます。

平岡円四郎の家へ立ち寄った帰り道、栄一と喜作はこう言いあったのです。

「京都に向かう前に吉原に行ってみんべえ!」

大河ドラマでは当然取り上げられない、江戸不夜城での長い夜。それに飽き足らず彼らはひとしきり遊んだあと伊勢参りへと旅に出ました。

路銀はたっぷりと父が用意してくれています。

伊勢参りの宿場町には、お約束の施設がありました。

遊郭です。

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実は当時の春画には旅行シリーズがあり「あの宿ではこんな女郎がいた」「この街では……」と案内するガイドブックになっていました。

現在ならスマホ片手にその手の店舗を検索する感覚でしょうか。

二人が旅の前から情報を得ていたことは十分にありえますし、旅程からしてもその可能性は否定しきれません。

ただし、一つだけ免罪符があるとすれば、その立場でしょうか。

志士は武士ならば脱藩、それ以外でも家出同然の者が多い幕末期。明日、命があるかもわからない――というのは事実で、それがまた「旅の恥は掻き捨て」感覚を助長させたとも考えられます。

二人に限ったことではない話ですが、だからといってずっとそんな生活が続くワケでもありません。

 

志士は酒と色を拒まず

実際二人は上洛後に金が尽き、自炊生活になります。

となると、遊べません。貞操問題ではなく、金銭問題でストイックな生活に追われます。

大河ドラマ『青天を衝け』の劇中は、一橋家の黒川嘉兵衛に女を斡旋された栄一が憤然として断り、千代にも女狂いはしていないと文を送っていました。

しかし、こうした話を頭から鵜呑みにしてよいかどうかは別でしょう。

若い栄一が禁欲生活を送っていたはずもなく、その傍証はあります。

栄一と喜作が上洛する前年に【塙次郎忠宝暗殺事件】がありました。

長いこと真相不明であったこの事件について、栄一は伊藤博文が犯人であると証言しています。

こうしたことから、栄一は打ち明けないけれども、京都時代に尊王攘夷を掲げる志士と密な交流があったとわかる。

その中には天狗党の藤田小四郎、薄井龍之も含まれています。

天狗党は長州藩過激派と同志関係です。こうした人間関係の中に栄一も含まれている。

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こうした尊王攘夷テロ活動の打ち合わせには、酒と女は欠かせません。ひとしきり遊んだ後の密室で計画を練る、カモフラージュも行われていました。

新選組隊士とも恋の鞘当てをしたと、本人が語り残しているほどです。

そんな建前と、女遊びを楽しむ本音――どちらもあるのが、渋沢栄一という人物でした。

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世界を股にかけた恋愛が始まる時代

幕末は、新たな恋も生まれる時代でした。

来日した外国人たちは、こんな要求を持ち出すことがあったのです。

「日本の女性と刺激的な出会いが楽しみたい。お世話していただけませんか?」

うーん、何を言っているんだ……と、幕僚は苦い顔に。

それこそ攘夷主義者の徳川斉昭はカンカンになって激怒する話です。

もちろんハリスのように潔癖なプロテスタントもり、お吉を世話したにも関わらず手を出さなかったということもありますが、あれは例外。

日本側にしても、武士では無い層は「ビジネスチャンス!」としてホイホイ乗り気になってしまう。

日本人妻がいた来日外国人の記録と写真が残されているのも、そうした取引の積み重ねと言えるでしょう。

女性の着物は胸元がはだけていることもあったため、そうした姿を見て大興奮した外国人の話も残されています。

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逆に、日本側の男性にしても、来日外国人が連れてくる妻に目が釘付けになりました。

髪の色や目の色が違っていようが、美女は美女である! そう興奮していたのです。

では栄一の場合は?

なにせ徳川昭武に随行してパリまで行ってますから、フランス人美女をじっくり観察する機会はありました。

渋沢栄一は漢籍に詳しいとされます。

古代中国から伝わった語彙で、フランス人美女を絶賛するという、なかなか味のある観察記が残っています。

二八の蛾眉!(2×8=16、十代の美女)

細軟軽窕!(さいなんけいちょう、細くて体が柔軟で軽やかでしなやか)

そのあたりのすれ違う婦人ですら、楊貴妃や西施にも劣らぬ美女ばかりである!

中国四大美女を例にして、なんという安売りをしているのか……。そう嘆きたくもなりますが、本人がそれだけテンション上がってしまったのでしょう。

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パリでの栄一は、プロの女性とアバンチュールを繰り広げたと振り返っています。

カトリックのフランスは、結婚後の交渉がそこまでとやかく言われません。要は、プロテスタントのイギリスやアメリカよりもゆるい。娼館にいるのではなく、流しのプロ女性もいました。

こんな美女を連れ帰って日本風に磨いたらますます輝くに違いない!

そう考えた栄一は、とある女性にこう訴えかけたのです。

「ぼくたちは別の国に生まれたけど、もう愛し合っているよね。でもぼくは今、公務でここまで来ている。連れて帰るわけにはいかないけど、日本まで追いかけて来てくれないか?」

果たして彼女は?

ハンカチを振りつつ冷たく返します。

「嘘にしたって許せる範囲じゃない。そんなに愛しているというのなら、それこそなんとしても一緒にいようとするでしょう? なのに別れてから追いかけて来い? ふざけないでよ」

渋沢栄一は何も言えませんでした。

明治の文学といえば森鴎外の『舞姫』が有名です。あの主人公は一体どんなメンタリティなのかと思った読者も多いことでしょう。

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渋沢栄一の価値観をたどるとヒントがあるかもしれませんね。

ただし、こうしたアバンチュールがもたらしたメリットもないわけではない。

まずは語学力。ある程度のフランス語を身につけていたとされます。

もうひとつ、渋沢は妾を「友人」と呼びました。

フランス語の「アミ」には、友人とか愛人という意味があります。そこからの連想かもしれません。

そしてパリからの帰国後、彼にはたくさんの「友人」ができることになるのです。

 

妻妾同居でも似ている君臣、慶喜と栄一

パリから帰国した栄一は、戊辰戦争に参加することはなく、駿府の生活を経て、スカウトのあと新政府に雇われます。

その経緯はさておき、ここから彼の私生活について考えてみましょう。

まずは駿府時代。

将軍でなくなった慶喜とその家臣は、徳川家父祖の地である駿府に向かいました。

ここで渋沢家は身を落ち着けますが、程なくして栄一は大蔵省に出仕し、大阪・造幣寮へ向かいました。

そして京都出身のくにという現地妻をもち、子を産ませたのです。

それだけなら権力者によくある話かもしれませんが、続きがなかなか眉をひそめたくなるものでした。

明治11年(1878年)、東京に新居を構えると、くにも呼び寄せ、千代と共に妻妾同居生活を堂々と始めたのです。

別宅にも「友人」こと愛人が複数おりました。

これはある意味、駿府での主君・慶喜にならったともいえます。

慶喜は駿府に移る際、側室の身辺整理をしました。

火消し新門辰五郎の娘であるお芳らは実家に戻されたものの、女中扱いの新村信、中根幸は残りました。この二人との間に10男11女を儲けたのです。

私生活においても、徳川慶喜と渋沢栄一という君臣は似ていたのですね。

「そう目くじらたてなさんな!」

という意見も確かにあるのでしょう。

しかし、それが“時代”だけで片付けられないのは、当時から白眼視されていたことから明らかです。

幕臣らは慶喜を見て、こう漏らしていました。

「貴人情けを知らずとは、あの人のことだ」

明治の慶喜は世捨て人同然です。ゆえに好き勝手やっても、要人としての政治外交的配慮は必要ないでしょう。

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しかし栄一はちがいます。

それこそ粉骨砕身で新たな国づくりに挑んでいる最中。

だからこそ身辺もキレイにしておくべきなのか。

あるいは愛人の一人二人は大目に見てもよいのか。

現代人にしても人によって判断が分かれそうですが、なにより本人がこの件について弁明を用意しています。まずはそこを見てみましょう。

 

長州閥流飲みニケーションだったから

明治時代が訪れると、江戸っ子たちは舌打ちして薩長閥を眺めていました。

江戸の風情をぶち壊し、気持ち悪ぃ悪弊を持ち込みやがった。そう苦々しく振り返り「おはぎ(長州)と芋(薩摩)め!」と罵倒する。

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江戸っ子お決まりの自慢はこうです。

「俺のじいさんはよォ、彰義隊として戦ったんでぇ!」

薩長には屈しない江戸っ子の強がりとでも言いましょうか。

では、そんな江戸っ子たちが苦い顔で見ていた薩長の悪弊とは?

薩摩については、野蛮な暴力性と男色です。

男色については、美少年を追いかけ回す性犯罪者集団「白袴隊」といった形で表面化しました。

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そして長州は、ずばり女遊びです。

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渋沢栄一は弁解と自慢を込めつつ、こんな素晴らしい相手とつきあえるのも、女と酒がある席で、粋な遊びをしたからだと明かしています。

「私が行いが悪いということは、まあ、このお二人の影響もあるんですよね」

長州流のワイルドな飲みニケーション文化のせいで、自分も女遊びをしたということですね。

ただし、同時に攘夷テロ仲間でもあったことについては、大っぴらには語っていません。

そこにあるのは坂の上の雲なんかではなく、どす黒い欲望のようにも見えてきます……。

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『論語』の超解釈

渋沢栄一と明治時代の理論をまとめてみましょう。

栄一の後妻である兼子は、人格者として知られる夫について、呆れながらこう言いました。

「あの人も『論語』とは上手いものを見つけなさったよ。あれが『聖書』だったら、てんで守れっこないものね」

そんな風に言われると『論語』には性的道徳規範がないように思えますが、もちろん違います。

論語にとっては迷惑千万。

渋沢栄一が好んだ漢籍でも「酒と色は節制すべきものである」と散々指摘されております。

要は、自己流解釈を拡大しがちなんですね。儒教であっても「心即理」を掲げた陽明学、その流れを汲む水戸学に若い頃から浸っていた渋沢栄一ならではの理論展開です。

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心即理という言葉は、一歩間違えると危険です。

「心が欲したらいいんだよ!」

というお題目のもとに、加害欲求や破壊衝動も止められない――ゆえに明や清、朝鮮では危険思想扱いでした。日本でも「寛政異学の禁」において陽明学は禁じられています。

しかし、だからこそなんでしょうか。熱狂的にハマり、心の赴くままに井伊直弼を暗殺してしまった。それが水戸学です。渋沢栄一が身につけていた理論とは、そういう危険な一面を有しているのです。

渋沢栄一流の超解釈な一例を挙げてみましょう。

『論語』「述而」から。

子、人と歌いて善(よ)ければ、必ず之(これ)を返さしめて、而る後に之に和す。

孔子は、誰かと歌って相手が優れていると、必ずその相手に繰り返し歌わせて、自ら一緒に歌っていた。

こう解釈できます。

それを渋沢栄一の『実験論語』にかかるとこういうことになる。

孔子は聖人君子のようだが、そういうわけでもない。誰かと一緒に嬉しそうに合唱することだってあった。

ここに彼なりの含みがあります。

幕末京都で志士をしていて、明治以降も長州閥と親しい渋沢栄一にとって「誰かと一緒に歌う」とは?

その連想相手は芸妓となります。

なぁんだ、孔子だってきっと美妓歌って飲んで騒いでいたんでしょ。そういう超解釈の余地が出てくる。

もちろん、これはあくまで渋沢栄一独特の超解釈。

孔子の『儀礼』を読めばそんなことはないとわかりそうなのに不思議でなりません。

清貧と理想に生きた孔子と、渋沢栄一を並列して賞賛するのはどうしても無理を感じるのはその点です。

誰と歌ったか?

中国には琴棋書画の伝統があります。友情として歌い、楽器を演奏することもありました。

それに「竹林の七賢」の阮籍(げんせき)と嵆康(けいこう)は、そうして歌って話し合う男同士で“特別な友情”が芽生えた。そういうボーイズラブも成立する。

明治の薩摩閥なら「よかよか!」と破顔しそうな話が成立します。

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大河の主役となった渋沢栄一が持ち上げられ『論語と算盤』がベストセラーとされていますが、その解釈は偏った時代精神や人生観が反映されていることを踏まえた方が無難でしょう。

儒教国家には、色欲に関する規定がない――そんなことはありません。

確かに一夫多妻制は認められている。玄宗と楊貴妃のように本業放棄でもしなければ、色狂いとはみなされない。

とはいえ、流石に兼子の言葉は言い過ぎだと思えるのです。

ここまで解釈するのだとすれば、それはあくまで夫・栄一が奔放であったことの反映にすぎません。

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