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【児玉源太郎】
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講和を進めた「軍功」
日露戦争の主な戦闘については以下の記事をご覧いただくとして……。
日露戦争なぜ勝てた? 仁川沖海戦に始まり講和条約が締結されるまで
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最後の会戦(大規模な陸での戦闘)となった【奉天会戦】で日本軍が勝ったとき、真っ先に講和の準備を始めたのは児玉でした。
一度勝ったからまた勝てるだろうと楽観視する本土の軍人達に、「今講和しなければ負ける、ぐずぐずしている暇はない!」と主張したのです。
その理由は以下の通り。
ロシア軍の規模の大きさやシベリア鉄道で迅速に次の部隊や物資が補給されること。
講和交渉に一定の期間を要するため早めに動かないと戦況が変わって恐れがあること。
日本側の戦費や死傷者数の大きさ。
それでもグズる陸軍でしたが、海軍大臣の山本権兵衛が児玉に同意したことで、ようやく講和への道を探り始めます。
日本の勝利が決定的になったことで有名な日本海海戦は奉天会戦の後ですが、その間、約2ヶ月空いており、ポーツマス条約で講和が決まったのは日本海海戦からさらに約3ヶ月後のことです。
つまり、もし講和を始めたのが日本海海戦の後だったら、また陸か海かで同規模の戦闘が起き、日本は戦費や兵数の不足によって押し切られ、負けていたかもしれません。
そうなった場合、おそらく朝鮮半島はおろか日本のどこかを割譲していた可能性もなくはないでしょう。ああおそロシア。
ですので、ある意味児玉のおかげで日露戦争に勝てたということもできるのです。
日本のナポレオン!→本人否定
児玉本人は、それを大した功績とも思っていなかった節があります。
晩年、浅草で日露戦争に関する展示が行われた際のエピソードに、こんなものがあるのです。
展示会場で、児玉を同じく小柄で優秀な軍人として有名なナポレオンになぞらえ「児玉参謀長は日本のナポレオンに違いない!」というようなことを言っていた若い軍人たちがいた。
そのとき、背後から「児玉はそんなにたいした人間ではありませんよ」とささやく声が聞こえた。
ムッとした軍人は振り返りながら「なんて失礼なことを言うんだ!」と反論したら、そこにいたのが他ならぬ児玉本人だったのですから仰天。
見事ドッキリを成功させた児玉はご満悦だった――。
背後から囁くなんて仕事人か乙女ゲーの男性キャラでもなきゃやらないと思うんですが、さすが児玉さん!おれたちにできないことを(ry
この手の自虐ジョークは昔から言っていたそうで、ほぼ成り上がり者だった児玉が身分の上下問わず慕われたのはこういうところからきていたのかもしれません。
そういう面を知ると、勲章をたくさんつけた軍服姿の写真も何だか愛嬌があるように見えてくるから不思議なもの。
お偉いさんほどユーモアを持つのが大切ということですかね。
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長月七紀・記
【参考】
国史大辞典
別冊宝島編集部『日本の軍人100人 男たちの決断』(→amazon)
児玉源太郎/wikipedia
日露戦争/wikipedia