ゴールデンカムイ 明治・大正・昭和

『ゴールデンカムイ』戦場に立ったアイヌたち 知られざる活躍 日露~太平洋戦争にて

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南極探検隊の山辺安之助と花守信吉

幕末から明治初期にかけ、日本とロシアでたびたび揉めた国境制定問題。

先住民族たちはこれに苦しめられました。

明治8年(1875年)、「樺太・千島交換条約」が制定されると、日本と縁の深い樺太アイヌたちは、ロシア領から日本領へと移住せねばならなかったのです。

こうして強制移住させられた中に、当時9才のヤヨマネクフもいました。

移住した樺太アイヌは、辛酸をなめました。

明治19年(1887年)には、コレラと天然痘(疱瘡)により、人口の4割が死滅するという悲劇に遭遇。

コレラは幕末期にもパンデミックを引き起こしています。

本州から和人が持ち込んだコレラや天然痘に対し、北海道の先住民は抵抗力がなく、多数の犠牲者が出てしまったのです。

こうした現象は、アメリカ大陸でも発生してたのは比較的有名な話でもありますね。

それでも成長したヤヨマネクフは、和名・山辺安之助(やまべ やすのすけ)を名乗り、成長してゆきます。

学校でも成績優秀で、リーダーシップにあふれる青年へと育っていったのです。

山辺安之助/wikipediaより引用

明治37年(1904年)、日露戦争が勃発すると、山辺が当時働いていた樺太の漁場は戦火によって失われました。

そこで彼は日本軍に協力し、偵察等の危険任務をこなします。

そして明治43年(1910年)になると、白瀬矗(しらせ のぶ)率いる探検隊が南極を目指すと知った山辺は、樺太犬20匹を引き連れての同行を決意しました。

同じく樺太アイヌの花守信吉(アイヌ名:シシラトカ)も、この探険に参加します。

白瀬矗/wikipediaより引用

 


「大和雪原」が一時的に日本領となる!

多くの樺太犬を失いながら、幾度かの挑戦を重ねて進む山辺たち。

艱難辛苦を乗り越えて、ついに白瀬隊は南極圏に到達します。

南極点には及ばなかったものの、1912年、ついに「大和雪原」と呼ばれる地帯を日本領としたのです。

大和雪原で白瀬隊/wikipediaより引用

しかしその後、

・後続の探検隊が送られなかったこと

・第二次世界大戦の敗戦

によって、日本領としての権利を放棄させられてしまいます。

歴史的な地名として正式に登録されたのは、発見から実に百年後、2012年のことでした。

山辺は樺太アイヌの指導者としてその後も活躍。金田一京助と協力し、『あいぬ物語』等の著書を残しています。


「天皇の赤子」とされるも

アイヌモシリが北海道とされ、そこに住むアイヌたちは日本国民とされました。ここまで見てきたように、成年男子は「天皇の赤子」として徴兵されたのです。

ただ、生きていたい。アイヌとか、和人とか、どうでもいいじゃないか。イポプテはそう振り返っています。それができなかったことは、当時の証言からも伺えます。

日本の臣民となるためには、書き言葉を覚え、知能試験を受け、兵士としての適性を調べられねばなりません。

言語の時点でアイヌはどうしたって不利になります。はなから不利な条件でランクをつけ、差別を正当化してきた歴史がそこにはあるのです。

徴兵検査で差別的な扱いを受ける。戦友から侮蔑的なことを言われる。自分はただ生きているだけなのに、どうしてそう扱ってくれないのか?

と、否が応でも向き合わねばならなかった苦悩が語り残されています。

イポプテは、そんな戸惑いがよくあらわれていた人物像でした。

金塊争奪戦にも巻き込まれていったイポプテ。彼の命を救い、最終回でも登場するキーアイテムは、マキリでした。

イポプテの物語には、「天皇の赤子」として扱われた兵士としての一面と、父から受け継いだマキリを掘り続ける、アイヌとしての本質が含まれています。

彼のような人が日本の近代史にいたことを、忘れてはならないのです。

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