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【鈴木貫太郎】
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天皇の侍従に
時は流れ、昭和四年(1929年)。
昭和天皇ご夫妻の希望で、鈴木は全く違う仕事に就くことになりました。
侍従長――簡単に言えば宮中お世話係のリーダーです。
なぜ根っからの軍人だった鈴木が指名されたのか?
それはよくわかりませんが、既に陸軍が張作霖爆殺事件(昭和三年・1929年)を起こした後ですから、海軍出身者をそばに置くことでバランスを取ろうという狙いだったのかもしれません。
本人は侍従の仕事には向いていないと思っていたようで。実務については経験豊富な人に任せ、主に昭和天皇の相談役を務めていたそうです。
鈴木は昭和天皇より30歳以上の年上でしたし、明治の激変を生きてきた人物として頼れる人物であるとお考えだったのでしょうか。
しかし、これによって鈴木は生死の境を彷徨うことになります。
昭和十一年(1936年)の二・二六事件で殺害ターゲットの一人に選ばれてしまったのです。
二・二六事件で絶命寸前
左足・左胸・頭部に銃弾を受け、さらに軍刀で止めを刺されかけた寸前。
妻のたかが身を挺して庇ったとされます。
しかもその庇い方がスゴイ。
「老人ですから、止めを刺すのはやめてください。どうしてもというなら、わたくしが致します!」
そんな台詞だったというのですから、襲撃者達も引かざるを得なかったでしょう。
襲撃班のリーダー・安藤輝三が鈴木と以前話したことがあり、最終的にトドメを刺す気がなくなってしまったという理由もあります。
なら、そもそも襲うなよ……という気になりますが、実際に発砲命令を出したのは安藤ではなく、撃ったのも兵卒だったので仕方ない。
というか「君側の奸」って主君が判断することであって臣下が決め付けるものじゃないと思うんですけども。
この重大すぎる勘違いで、いったい歴史上何人の忠臣が殺されてしまったのか。
終戦まぎわに総理大臣に
まぁ、それはさておき太平洋戦争終結の年――。
昭和二十年(1945年)4月、鈴木は総理大臣に任命されました。
このとき鈴木は枢密院(天皇の諮問機関)の院長を務めていたため、またしても全く違う仕事を命じられたことになります。
枢密院自体が天皇の信任が厚くなければできない仕事ですし、総理となればなおさら。昭和天皇は本当に鈴木を頼りにしていたのでしょう。
他の重臣達もほぼ異議はなく、辞退しようとする鈴木に対し
「もう他に人はいない。どうか頼む」
とまで仰っていたそうです。
これを指して鈴木を「天皇に唯一”お願い”された男」と言うこともありますね。
このとき既に鈴木は77歳。現在に至るまで最高齢の総理就任です。
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